修正主義の台頭
戦後の諸講和条約は、敗戦国はもとより戦勝国の一部にも強い不満を残し、とりわけ国境線再変更などの領土回復要求の動きをひきおこすことになった。講和条約改定(修正)を求める動きは修正主義と呼ばれている。修正主義は大戦からの負の遺産、その後遺症だけでなく、一民族一国家による国民国家の樹立、排他的ナショナリズムの拡大に起因するもので、両大戦間期の国際関係を動揺させる不安定要因のひとつになった。
修正主義の台頭
戦後の諸講和条約は、敗戦国はもとより戦勝国の一部にも強い不満を残し、とりわけ国境線再変更などの領土回復要求の動きをひきおこすことになった。講和条約改定(修正)を求める動きは修正主義と呼ばれている。修正主義は大戦からの負の遺産、その後遺症だけでなく、一民族一国家による国民国家の樹立、排他的ナショナリズムの拡大に起因するもので、両大戦間期の国際関係を動揺させる不安定要因のひとつになった。
修正主義(Revisionism)
この用語は、現在では人文・社会科学分野での定説に疑義を呈し、それを否定あるいは修正しようとする見解などに一般的に使われているが、歴史学上の用語としては、マルクス主義に関するベルンシュタインの批判とヴェルサイユ条約などの決定、とくにドイツの単独責任論を批判し、その修正を求める議論を指している。
もっとも強硬な修正主義を掲げる国は当然ながらドイツであった。ドイツは講和条約そのものはうけ入れざるをえなかったが、早くから東部国境、とくにポーランドとの国境線を一時的なものとみなし、大戦前の旧国境回復をめざす立場を明らかにしていた。1921年3月、オーバーシュレジエン地域で帰属を決定する住民投票が実施された。過半数を超える6割がドイツ帰属を表明したにもかかわらず、有力な鉱物資源地域を失うことをおそれたポーランド側は武装蜂起で抵抗した。翌年の国際調停の結果、同地域でもっとも重要な炭鉱産出地帯を含む部分がポーランド側に編入された。
この決定はドイツ側の東部国境改定意欲をいっそう刺激した。22年に開催されたヨーロッパ経済復興会議(ジェノヴァ会議)の際、ドイツがヴェルサイユ体制下で疎外されていたソヴィエト=ロシアと国交を回復し、相互に賠償請求を放棄するラパロ条約 Rapallo を結んで、国際社会を驚かせたのも、ドイツの修正主義外交の一環であった。一方、ポーランドも国家再興直後から分割前の「歴史的な領土」の回復を唱え、ヴェルサイユ講和条約が確定する前の1919年5月には、軍事行動によって東ガリツィアを占領して、連合国 に25年間の統治権を認めさせた。さらに翌年5月には、ベラルーシ・ウクライナに攻勢をかけ、一時キエフを占領した(ポーランド=ソヴィエト戦争) ❶ 。しかしソヴィエト=ロシアの強力な反撃にあい、8月には首都ワルシャワ前面にまで押し戻されたが、かろうじてこの危機を切り抜け、翌年3月にソヴィエト政府とのリガ条約 Riga で、ベラルーシ・ウクライナの一部をポーランドに含めた新国境が確定した。
トルコでは講和条約調印時にアンカラに本拠をおいていたケマルらの勢力が条約をうけ入れを拒否し、一方戦勝国となったギリシアはイズミル izmir を拠点に小アジアでの勢力拡大を企図して、軍事衝突にいたった(ギリシア=トルコ戦争)。1922年ギリシアが敗北してイズミルを放棄し小アジアから撤退すると、トルコは連合国 と交渉し、1923年7月 セーヴル条約 にかわるローザンヌ条約 Lausanne を改めて結び、トルコ・ギリシア間の国境が決定された。
ギリシアと同様に戦勝国でありながら、イタリアもまた早くから修正主義外交を展開した国であった。秘密条約による領土拡大の約束のもとに参戦した唯一の列強であったイタリアは、港湾都市フィウメ Fiume のイタリアへの帰属を要求し、それが認められないと1919年4月には一時講和会議を離脱した。こうした進展に不満をもつ作家ダヌンツィオ D’Annunzio (1863〜1938) ❷ らに率いられたイタリアのナショナリストの一団は、19年9月に独断でフィウメを占領した。その後フィウメはダンツィオ方式の自由港にすることが合意され、ダヌンツィオらは退去させられた。しかし、ムッソリーニ政権は1925年ユーゴスラヴィアにフィウメのイタリア帰属を認めさせ、当初の要求を押し通した。(フィウメ問題)