合衆国の対外発展とメキシコ 日米和親条約 合衆国水師提督口上書
合衆国水師提督口上書 左よりヘンリー・アダムス副使(艦長)、ペリー水師提督、アナン軍使(司令官)(作者不明/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

合衆国の対外発展とメキシコ

1854年日米和親条約締結(日本の開国)
1867年露よりアラスカ購入(クリミア戦争後の財政難などによりロシアから打診)

合衆国の対外発展とメキシコ

対外面では、カリフォルニア獲得以降、アメリカは太平洋方面に関心をもちはじめ、1854年日米和親条約を締結した(日本の開国)。またアラスカについては露米会社の経営不振やクリミア戦争後の財政難などを背景に、ロシアがアメリカへの売却を打診してきたことをうけて1867年720万ドル(当時)で購入した。議会からは「巨大な冷蔵庫」と批判されたが、その後、金や石油の発見など豊かな資源がみつかっている。

隣国のメキシコでは、フアレス Juárez (1806〜72 任1858〜72)がサンタ=アナ Santa Anna (1794〜1876)の独裁政権を倒したのち、1861年教会財産の没収や土地改革宣言を発表し、さらに対外利子支払いの2年間停止を発表した。メキシコに投資してきたイギリス・フランス・スペインは共同で出兵し圧力をかけたので、メキシコ政府はやむをえず利子支払いに応じた。

イギリスとスペインは撤退したが、ナポレオン3世だけはメキシコへの野心を実現すべく賠償額が決定されていないという理由で62年さらに軍隊を増派し、64年オーストリアのマクシミリアン Maximilian (位1864〜76)を皇帝にすえた。メキシコ人は自由主義派のフアレスを先頭に抵抗し、また南北戦争を終結させた合衆国もモンロー教書にもとづき強硬にナポレオン3世に抗議したので、フランス軍は撤退し、マクシミリアン(メキシコ皇帝)は67年銃殺刑にされた。

合衆国の対外発展とメキシコ
皇帝マクシミリアンの処刑(エドゥアール・マネ画/マンハイム美術館蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©世界の歴史まっぷ
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