大衆社会への入り口
コカ・コーラポスター(画像出典:Coca-Cola
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大衆社会への入り口

1920年代以降、アメリカを中心に大量生産・大量消費を基盤とする大衆消費社会が到来した。ここでは、大衆の購買意欲を刺激するさまざまな商品広告も発達し、雑誌や街角の広告塔を飾った。

大衆社会への入り口

大衆社会への入り口
コカ・コーラポスター(画像出典:Coca-Cola

商品広告:1920年代以降、アメリカを中心に大量生産・大量消費を基盤とする大衆消費社会が到来した。ここでは、大衆の購買意欲を刺激するさまざまな商品広告も発達し、雑誌や街角の広告塔を飾った。

19世紀のヨーロッパの人口は1800年から1850年までに47%、次の半世紀で53%増え、1800年頃から第一次世界大戦直前までの「長い19世紀」の間に人口は2.5倍に増加した。上下水道の整備、伝染病の予防など公衆衛生思想の実践、住宅事情や栄養状態の改善などにより平均寿命も、イギリスのような先進地域では半世紀末までに50歳を超えるようになった。工業化の拠点となる都市の発展も著しいものがあった。中小都市も含めて都市人口は大幅に増加し、都市人口の総人口に占める割合は、第一次世界大戦直前には、イギリスで30%を超え、アメリカ合衆国・ドイツでも20%を上回った。1850年には百万都市はロンドンとパリだけであったが、1890年にはベルリン・サンクトペテルブルク・ウィーンが加わった。これらの大都会では従来の市壁が取り壊されたあとが大通りとなり、そこには官庁や劇場などが計画的にたてられた。市街地の外側には広大な緑地帯が設けられた。都市の照明としてはガス灯が普及し、やがて19世紀末には電灯が出現した。さらに公共交通機関として路面電車や地下鉄が出現することになった。

急速な工業化都市化によって従来の手工業者や農民は伝統的な生活基盤を破壊され、都市に流入した人々は古い共同体的な人間関係や生活習慣から切り離されて生きなければならなかった。大都会にはエスカレーターを備えたデパートが出現するなど、ヨーロッパでは大衆消費社会の芽がきざしつつあったが、地主や貴族、資本家や銀行家、高級官僚や高級軍人と、労働者などの貧しい下層大衆との間の貧富の差はますます拡大していった。資本家が企業間の利害調整のためにさまざまな連合体を結成したように、労働者ははじめは職能別に、のちには非熟練労働者を含む産業別に労働組合をつくって賃上げや待遇改善をはかった。農民もまた資金調達や販路確保のために農業組合をつくった。このような社会の組織化は政治の世界にもおよんだ。労働者の利害を代表する社会民主党や労働党などの大衆政党が議会に進出して政治的影響を発揮するようになり、「財産と教養」をもった名望家めいぼうかによる議会政治は後退せざるをえなくなった。また、大企業や官庁のような巨大組織は管理運営部門で働く専門的な知識と能力を有する人員を必要とした。医者・法律家・大学教授など専門職に従事した階層を旧中間層と呼ぶのに対し、これらの事務職員(ホワイトカラー)は技術者とともに新中間層と言われる。選挙権の拡大やジャーナリズムの発達によって、分厚くなった中間層が下層階級とともに世論形成に加わるようになった。こうして時代は、デパートに象徴される大衆消費社会の出現とともに、大衆社会への入り口にたった。

日常生活も変わった。人々は廉価れんかで通俗的な新聞を読み、大衆スポーツとしてのサッカーを観戦した。また、鉄道網の整備も進み、近くのリゾート地に家族旅行に出かけることも多くなった。ものごとが急激に転換しようとしているこの時代は19世紀の終わりのときにあたり、文学者や芸術家には市民時代の価値観の終焉として不安をもって迎えられた。世紀末文化が爛熟や退廃、そして諦念たいねんを表現したのは、近代文明の物質主義や進歩主義への批判であった。しかし、長い不況の克服、帝国領土の拡大やつぎつぎに実用化される新技術を前にして、一般大衆は未来へ楽観的希望を抱いたのであり、後世の人々は世紀転換期から第一次世界大戦が始まる20年間ほどをフランス語で「ベルエポック Bell Époque 」(よき時代)と呼んで懐古した。

ナショナリズムと国民意識

国民という観念は、近代国民国家形成の過程でつくりだされた人為的な集団であるということが、広く認識されるようになっている。人はまず、血縁集団、村や町の共同体、教区、さまざまな職業団体、さらには地方というような一時的=自生的な集団に所属するのであって、国民国家は二次的=人為的な存在であるとされる。人々はまずそれぞれが横のコミュニケーションに乏しい、閉鎖的な集団に所属していたのだが、産業資本主義と国民国家がその閉鎖性を破る。そのために、共通の伝統や歴史、慣習や伝承を発掘し、再認識することによって、かつて存在し、今は失われたと想定される共通の連帯意識をとりもどそうとする作業が大規模におこなわれた。たとえば、人々がひとつの、共通の言語を用いることは国民の存在の前提であり、そのために普通教育としての小学校には国語教科が導入され、方言や多言語を排除していった。学校はまた、国民としての共通のものの見方、振る舞いや態度を教え、人々の規律化を進める場となった。

このような人々の国民化は学校だけでなく、ポスターやパンフレットなどの宣伝媒体、さらには文学・芸術作品で用いられるアレゴリー(女神像など)、国の誇るべき景観などさまざまな意匠いしょうをこらして進められた。あるべき国民を政治・経済・文化の中心的な主体に考えるナショナリズムは、国家間の帝国主義的競争の激化、国内における社会的・経済的矛盾の自覚と労働運動の展開、多様な利害集団の組織化などが進むにつれて、世紀末以降より強調されるようになった。

「昨日の世界、安定の世界」

1881年にウィーンに生まれたユダヤ系の作家シュテファン=ツヴァイクは世紀転換期のヨーロッパが浸っていた楽観的なものの見方を次のように描いた。

「止まることのない不断の”進歩”というものに対するこの信仰は、その時代では真に宗教のような力を持っていた。そしてその福音は、日々に新たな科学と技術との奇蹟によって、論議の余地のないほど証明されているように見えた。実際、この平和な世紀の終わりにおける一般的な興隆は、いよいよ目に見えてゆき、いよいよすみやかに、いよいよ多様になっていった。路上には、夜、ほの暗い光の代わりに電燈が輝いた。商店はその人の心をそそる新しい美観を、メインストリートから場末にまで持ち込んだ。今や電話のおかげで遠距離の人々と話ができたし、新しいスピードを持つ馬のいらない車でそこまで飛んでゆけたし、ギリシャ神話にあるイカルスの夢を実現して大空を天翔けることもできた。便利さは上流の家々に止まらず、一般市民の家にまでおよび、もはや水を泉やかけいから運んでくる必要もなく、もはや苦労してかまどで火をおこす必要もなくなった。衛生が普及し、不潔は消滅した。人間はスポーツで肉体を鍛えられて以来、いっそう美しく、力強く健康になった。これらの奇蹟はすべて、進歩の主天使である科学が果たしたのであった。

社会的な問題にも進歩が見られた。大衆の貧困という問題も、もはや克服できないものとは思われなくなった。いよいよ広範な層に選挙権が与えられ、それによって彼らの利益を合法的に擁護する可能性が与えられた。人々は、ヨーロッパ諸民族間の戦争というような野蛮な逆行を、魔女や幽霊を信じないように信じたくなかった。

彼らは心から思っていた、一国民や宗派の間の境界とか背馳はいちというものは、次第に共通の人間的なもののなかに消えてゆき、それによって平和と安定という至上の宝が全人類に頒ち与えられるだろうと。」 (原田義人訳)

ナチズムから逃れたツヴァイクは1942年、南米で自殺した。

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