大陸部の諸国の興亡
インドでムスリム政権が成立し発展した時代に、東南アジアでは数多くの民族国家が興亡している。
- ミャンマー:タウングー朝 → コンバウン朝
- タイ:アユタヤ朝 → スコータイ朝併合 → トンブリー朝 → ラタナコーシン朝
- ラオス:ランサン王朝
- ベトナム:明支配 → 黎朝 → 莫朝 → 鄭氏・阮氏 → 西山朝 → 阮朝
大陸部の諸国の興亡
インドでムスリム政権が成立し発展した時代に、東南アジアでは数多くの民族国家が興亡している。
ミャンマー(ビルマ)
ミャンマー(ビルマ)では13世紀末にパガン朝が滅んだあと、北部のシャン人(都はアヴァ)や南部のモン人(都はペグー)が台頭した。両国は、しばしば戦闘を交えながらも2世紀以上にわたり政権を維持してきたが、やがてミャンマー人が勢力を回復し、中部のトゥングー(タウングー)に拠っていたミャンマー人が、ペグーとアヴァを攻略して全土を統一した。トゥングー朝(タウングー朝 1531〜1752)は都をベグー(のちアヴァ)におき、タイのアユタヤ朝と戦って領土を広げ、一時はオランダ・イギリスとの交易で栄えたが、のちしだいにモン人に圧倒され1752年に国都アヴァを占領されて滅んだ。しかしこのモン人も、同年にミャンマー人のアラウンパヤー(位1752〜1760)と戦って敗れ、1757年には首都ペグーも陥落した。ここにミャンマー人による3度目の統一王朝コンバウン朝(アラウンパヤー朝 1752〜1885)の成立をみた。
コンバウン朝は清軍(乾隆帝)の侵攻に苦しみつつも、タイのアユタヤ朝と戦ってこれを滅ぼした(1767)。また南西の山岳方面にも領土を広げたが、やがてアッサム方面から進出してきたイギリスと衝突するにいたった。
タイ(シャム)
タイ(シャム)では、ラーマティボディ1世(位1351〜1369)が創始したアユタヤ朝(1351〜1767)が、クメール人のアンコール朝を滅ぼし(1431頃)、北方のスコータイ朝を併合(1438)するなどして四周に領土を広げ、強盛を誇った。首都アユタヤは交易の中心としても栄え、16世紀にはポルトガル、17世紀にはオランダ・フランスの商船がしばしば来航した。アユタヤは朱印船貿易に従事する日本人の活躍の舞台でもあり、この港の日本町には一時1500人の日本人が居住していた。
17世紀初めに山田長政(?〜1630)が仕えたのもこの王朝である。しかし長年にわたるミャンマーとの抗争のすえ、1767年にコンバウン朝によって倒された。400年以上にわたるアユタヤ朝の治世下に、仏教を中心とする文化の花が開き、建築・彫刻をはじめとする美術の分野で、スコータイ朝の伝統をさらに発展させた独自の様式を生んだ。アユタヤ朝を滅ぼしたミャンマー軍は、華僑を父としタイ人を母とする武将タークシン(鄭信 位1767〜1782)によって撃退された。彼はメナム川河口のトンブリーで王朝を開き(トンブリー朝)タイの再統一を果たしたが、部下に殺され、その後タークシンの武将チャクリ(ラーマ1世 位1782〜1809)によって新王朝が創始された。これがタイの現王朝ラタナコーシン朝(チャクリ朝 1782〜)である。都がバンコクにおかれたためバンコク朝とも呼ばれる。このころ東南アジア諸国に軍事的進出を試みつつあったヨーロッパ勢力に対し、この王朝ははじめ閉鎖的政策で臨んだが、ラーマ4世(モンクット 位1851〜1868)の時代から開放政策に転じるにいたった。
ラオス
インドシナ中部高原(今日のラオス)に南下してきたタイ系のラオ人は、14世紀半ばにランサン王国(ラーンサーン王朝 14世紀〜18世紀)をたてた。この王国は上座部仏教を奉じ、一時その勢力を周辺の諸国に広げたが、18世紀初めに分裂し、それ以後はミャンマー・タイ・ベトナムによって国土を蚕食された。なお、クメール人(カンボジア人)は、13世紀以来、タイやベトナムに攻められ、衰退の一途をたどった。
ベトナム
ベトナムは15世紀初め明の永楽帝に征服されてその支配下に入ったが、まもなく明軍を駆逐した黎利(レ・ロイ 位1428〜1433)によってハノイに都をおく黎朝(1428〜1527、1532〜1789)が創始された。この王朝は10〜11世紀の前黎朝に対し後黎朝とも呼ばれる。15世紀後半の黎聖宗(位1460〜1497)の時代が最盛期で、内にあっては明朝にならって諸制度を整え、また耕地の公田制を採択し、外に対しては南方のチャンパーと戦ってこれを壊滅させ、さらに西方のラオスに進出するなど、国威を大いに高めた。しかし、彼の死後はふるわず、1527年に臣下の莫登庸(位1527〜1529)に王位を奪われた。黎朝は1532年に復活するが、権力は弱く、国土の北半はハノイの鄭氏(東京)、南半はフエ(順化)の阮氏(広南)の実権下におかれた。1771年に広南国の阮氏に対して反乱をおこしたタイソン党(西山党)は、阮氏を破り鄭氏を追い、清の乾隆帝と結んで勢力の回復をはかった黎朝を最終的に滅ぼし(1789)、一時ベトナム全土を支配した(タイソン朝(西山朝)1771〜1802)。しかし、内紛と指導者(阮文岳・阮文呂・阮文恵の3兄弟)の死によって弱体化し、1802年に広南国阮氏の一族阮福暎によって滅ぼされた。阮福暎(世祖嘉隆帝 位1802〜1820)はフエに都をおく王朝(阮朝 1802〜1945)を創始し、国号をベトナム(越南)と定め、黎朝や清朝の制度にならって国制を整えた。しかし、阮福暎がタイソン軍との戦いに際してフランス人宣教師ピニョー=ド=ベーヌ Pigneau de Behaine (1741〜99)の援助をうけたため、この王朝はフランスとの関係が深く、これがフランス領インドシナ成立の遠因となった。