東アジア諸地域の変動
日本は11世紀後半、摂関政治にかわって院政がしかれ、12世紀後半に平清盛が平氏政権を確立し日宋貿易に力を入れた。平氏政権を倒した源頼朝は武家政権である鎌倉幕府を開く。13世紀後半、フビライの朝貢の要求を鎌倉幕府が退けると、2回にわたって元(王朝)軍が北九州に侵入した(文永の役・弘安の役)。
朝鮮は918年、王建が高麗を建国し936年に朝鮮半島を統一。11世紀には最盛期を迎えるが、12世紀後半武臣が貴族を倒して政権を握ると各地で農民反乱が続発した。
13世紀半ば、連年のように侵入するモンゴルに屈服し属国となる。三別抄の乱。
東アジア諸地域の変動
朝鮮
朝鮮では新羅末期の動乱で台頭した豪族の王建(太祖(高麗))が、918年、高麗を建国し、936年には朝鮮半島を統一して開城に都をおいた。初期の高麗は、豪族の連合政権としての性格が強かったが、唐の制度を導入して中央集権化に努め、11世紀には内政も安定して最盛期を迎えた。12世紀後半、武臣が貴族を倒して政権を握ると、各地で農民反乱が続発して、高麗王朝は動揺した。
この反乱の過程で旧来の貴族の権威は失墜し、12世紀末には崔氏一門の強力な武臣政権が成立した。しかし、このころから契丹・女真が北辺に侵入を始め、13世紀半ばには連年のようにモンゴルが侵入をくりかえした。この窮状を打開できない崔氏政権への不満は高まり、1258年、クーデターで崔氏が倒されると、江華島で抗戦していた高麗国王はモンゴルに屈服した。高麗はモンゴルの属国となり、朝鮮本土にはダルガチ(達魯花赤占)が派遣されて民衆は苦しめられた。しかし、高麗軍の一部である三別抄は、朝鮮半島南部の海岸地帯を転戦し、モンゴルに最期まで抵抗した。
三別抄の乱
別抄とは臨時編制の精鋭部隊の意味で、武臣政権を立てた崔氏政権によってのちに常備軍とされた。左夜別抄・右夜別抄・神義別抄の3部隊からなり、これを総称して三別抄という。モンゴルが高麗に侵入すると、国王や崔氏政権とともに江華島を拠点として防戦に努め、1270年、元宗(高麗)が降伏して開城に移ったのちも抗戦を続けた。元宗(高麗)の解散令を拒否した三別抄は、王族の王温を擁立して、新たに珍島を本拠地に抵抗を続け、1271年モンゴル・高麗連合軍が珍島を攻略すると、耽羅(済州島)に移って朝鮮南岸を脅かした。1273年、1万2000の元・高麗連合軍の耽羅攻略によって平定されたが、翌1274年に元の第1回日本侵攻(文永の役)があったことから、三別抄の乱がフビライ・ハンの日本遠征を遅らせたといわれている。
高麗では、仏教が護国の宗教として厚く保護され、歴代の国王も深く帰依して各地に寺院を建立した。また、有力者によって土地や奴婢の寄進もおこなわれ、仏教は隆盛をきわめた。なかでも高麗版大蔵経は、崔氏政権がモンゴル退散を祈願して復刻したもので、8万1000余枚の版木からなっている。
美術工芸の分野でも製陶技術が進んで、高麗青磁がつくられた。唐初は北宋の青磁や白磁の影響をうけたが、やがて独自の青緑色や器形に発展した。また13世紀には、世界最古といわれる金属活字による印刷が行われ、この技術は、朝鮮王朝にも継承されおおいに発展した。
日本
9世紀以降、朝廷では藤原氏が台頭し、10世紀後半になると、摂関政治を展開した。このころには律令制的支配も動揺し、かわって貴族や大寺院が土地・農地を専有する荘園制が発展し、藤原氏をはじめとする貴族の社会的経済的基盤となった。
大陸では、唐末の混乱が続いたため、9世紀末、遣唐使は廃止された。このため公的な関係は途絶えたが、民間の交渉は継続した。これにより国風文化が形成され、仮名文字の発達により和歌やかな物語といった文学が貴族の間で栄えた。
11世紀後半になると、摂関政治にかわって院政がしかれ、受領や武士団をとりこんで権力を強化したが、12世紀後半に武家の棟梁である平清盛が平氏政権を確立し、日宋貿易に力を入れた。(平氏政権 – 世界の歴史まっぷ)ついで平氏政権を倒した源頼朝は、初めての武家政権である鎌倉幕府を開き、執権北条氏のもとで幕府は朝廷に優位を保つようになった。
13世紀後半、フビライの朝貢の要求を鎌倉幕府が退けると、2回にわたって元(王朝)軍が北九州に侵入した(文永の役・弘安の役)。西国の武士の活躍で撃退したが、この元の日本侵攻(元寇)を機に幕府は全国への支配を強化し、かえって武士の不満を募らせた。
鎌倉時代には、武士や庶民による日本独自の文化が栄えたが、宋(王朝)・元(王朝)との私貿易や僧侶の渡航によって、大陸の文化がもたらされた。禅宗が栄西らによって伝えられ、また宋の影響で尾張の瀬戸焼などの陶器生産も発展した。