清朝と東南アジア
- ベトナム:黎朝(黎利) 西山朝 阮朝(嘉隆帝)
- ミャンマー:パガン朝 アヴァ朝 ペグー朝 トゥングー朝 コンバウン朝(アラウンパヤー) 英領インド
- タイ:スコータイ朝(ラームカムヘーン) アユタヤ朝 チャクリー朝(ラーマ1世)
清朝と東南アジア
18世紀後半から19世紀の初めにかけてのインドシナ半島では、おおよそ今日の領域に重なる諸王朝の枠組みが形成された。これらの諸王朝は建国当初、清に朝貢してその支持をえようとしたが、服属関係は名目的なものであり、清朝もそれら諸国に対して実質的な支配をおよぼしてはいない。
ベトナム
明朝を破った黎利がハノイにて即位し黎朝(1428〜1527・1532〜1789)を開き、国号を大越国とした。しかし16世紀前半には一時臣下(莫氏)に国王位を奪われたが、まもなく復興した。しかし実権は北部の鄭氏と、南部の阮氏に握られ、黎朝は南北に分裂した状態となった。18世紀後半、西山党の乱を契機に西山党の阮氏一族が北の鄭氏と南の阮氏を滅ぼし、ベトナムを統一して西山朝(1771〜1802)をたてた。西山党に滅ぼされた南部阮氏の一族である阮福暎(阮福映)はタイへ亡命していた。ラーマ1世やフランス人宣教師(ピニョー=ド=ベーヌ)の支援をうけた彼は、1802年、西山朝を倒してベトナムを統一して即位(嘉隆帝 位1802〜1820)し、フエを都とした越南(ベトナム)を開いた(阮朝 1802〜1945)。
ミャンマー
ミャンマーの最初の統一王朝であるパガン朝は、1287年に元朝の侵入をうけて滅亡した。その後ミャンマーでは、シャン人のアヴァ朝、モン人のペグー朝、ミャンマー人のトゥングー朝(タウングー朝)の3国の分裂状態がしばらく続いた。しだいにミャンマー人の勢力が強大となり、16世紀にミャンマー人はペグー朝を滅ぼし、ペグーを都とするトゥングー朝(1531〜1752)をたて、その後アヴァ朝をも滅ぼした。トゥングー朝はミャンマー人とモン人の融和をはかり領土を拡大したが、17世紀にはオランダ・イギリスの進出や明・清の侵入をうけ、1752年にはモン人に滅ぼされた。
ところがミャンマー人のアラウンパヤー(位1752〜1760)がモン人を退けてコンバウン朝(1752〜1885)をたて、18世紀には全盛期を迎えた。しかし19世紀後半には、インド方面からのイギリスの進出をうけて激しい抵抗をみせたが(イギリス=ビルマ戦争 1824〜1826、52〜53、85〜86)、1886年にイギリスに降伏し、ミャンマーは英領インド(インド帝国)に併合された。
タイ
四川・雲南地方にいたタイ人は、8世紀ころからしだいにインドシナ半島へ南下し、クメール人のカンボジア(真臘)に従属していたが、13世紀のモンゴル人による雲南地方への侵入でタイ人の南下がさらに活発となり、カンボジアが衰えるとこれを破って自立し、スコータイ朝(1257頃〜1438頃)をたてた( 民族国家の形成)。第3代国王ラームカムヘーン(ラーマカムヘン 位1275〜1317)の時が全盛期で、王はタイ文字を制定し、上座部仏教をとりいれ、その勢力はマレー半島までおよんだ。しかし王の死後は急速に衰え、メナム川下流にタイ人のアユタヤ朝(1351〜1767)が建国されると、しだいに勢力を奪われた。アユタヤ朝は上座部仏教国として栄え、日本人の山田長政が活躍したことで知られるが、18世紀になるとミャンマーのコンバウン朝の侵入をうけて滅んだ。
コンバウン朝が清と争っている間に、アユタヤ朝滅亡後の混乱を収拾したチャオプラヤー・チャクリ(ラーマ1世 位1782〜1809)は、1782年バンコクを首都としたラタナコーシン朝(チャクリー朝)を建国した。その後19世紀半ば以降、イギリスやフランスの圧迫をうけつつも独立を保ち、1932年に立憲王国となって現在にいたっている。