社会経済の変化 14.北方民族の活動と中国の分裂
北魏の漢化政策と中国人が胡人から取り入れた生活様式 北魏は漢化政策で漢人の服装などを積極的に取り入れた。一方で漢人も胡人の胡座や椅子を使用するようになった。文化の交流は一方通行ではない。(「韓熙載夜宴図 」©Public Domain より)

社会経済の変化
後漢末から南北朝時代をつうじて、地方社会の有力者として豪族は各地で力を強めた。

以上の土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。

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東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

後漢末から南北朝時代をつうじて、地方社会の有力者として豪族は各地で力を強めた。

官吏を任用する制度として、漢代の郷挙里選にかわって、魏王朝の文帝(曹丕)のときから九品中正きゅうひんちゅうせい九品官人法)が始められた。
郷挙里選は、地方長官が在野の有能な人物を官吏候補者として推薦する制度であったが、しだいに豪族の子弟が推薦される場合が多くなり、本来の目的と反するようになっていた。こうした弊害をのぞく目的で始められたのが九品中正で、地方に中央政府から任命された中正官をおき、郷里の評判によって人物を九品(9等級)に分けて推薦した。これを郷品きょうひんといい中央政府ではこの郷品にもとづいて、それにふさわしい等級(官品)の官職を与えた。
しかしながら、中正官に任命された人物も、その地方の豪族であったから、有力な豪族の子弟を推薦することになり、その結果、豪族はその社会的地位に応じた政治的地位を得て、貴族政治を成立させることになった。有力な豪族は、それぞれの政権で主要な官職を独占し、さらに彼ら同士で交際通婚して 門閥貴族となり、「上品に寒門かんもんなく下品かひん勢族せいぞくなし」(九品中正による貴族の高級官職独占の状況を述べたもので、寒門とは貴族より低く位置付けられた家柄、勢族とは有力な貴族をさす。)といわれる状態を生み出した。

門閥貴族:貴族のなかでその家から代々高官をだし、家柄の高さを誇るようになったものをいう。九品中正は、名門の家柄の固定化につながった。

後漢末以来の戦乱や豪族・貴族による大土地所有の発展によって、土地を失った農民は郷里を離れて流民となり、あるいは豪族・貴族の奴隷や隷属民になるものも現れた。これは、国家が直接支配する土地と人民とを減少させることを意味し、必然的に国家の財政、さらには軍事力の基盤を危うくするものであった。
このような事態への対応策としておこなわれたのが、三国の魏王朝の屯田制、西晋の占田・課田法、北魏の均田制である。

屯田性は、漢代、辺境で守備兵に戦闘の合間に耕作させることから始まった制度である(軍屯ぐんとん)。これに対して、魏の曹操は軍屯とは別に、後漢末の戦乱のために生じた中原の所有者のいない荒地を国有地とし、それを流民や一般農民を募って耕作させ、収穫の5〜6割を小作料として徴収する土地制度をはじめた。これが魏の屯田制(民屯みんとん)である。魏の財政は、主にこれに依存していたといわれる。なお、呉でも民屯がおこなわれた。

西晋の武帝(司馬炎)は、呉を滅ぼした直後の280年に占田・課田法といわれる土地制度をおこなった。このうち、占田は、土地所有の最高限度を定めたもので、男子70畝、女子30畝を上限とし、官人には官品にしたがって上限がそれぞれ定められた。なお、課田の解釈には、農民に国有地を割りつけ耕作させたとする説など種々のものがある。

均田制は、北魏の孝文帝によって始められた土地制度である。五胡十六国時代の戦乱のため荒廃した華北の農業生産力を回復し、税収を確保することを目的としたもので、一定の基準で土地を農民に支給し、自作農をつくることを目指したが、その効果は一部にとどまった。
なお、特徴的なことは、奴婢・耕牛をも対象にして土地が支給された点で、これらの土地は、当然、奴婢・耕牛の所有者である豪族に帰属することになったわけであり、北魏の均田制が豪族に有利な側面をもっていたことは確かである。こののち、均田制は北朝を経て隋に受け継がれ、唐で整備された。
隋 文帝(隋)
均田制の比較 ©世界の歴史まっぷ

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均田制の比較表 – 世界の歴史まっぷ

このような土地へのさまざまな対応策も、国家がある程度の数の農民を確保し、税収の基礎を固めるのには役立ったが、豪族・貴族による大土地所有の進行をさまたげるまでにはいたらなかった。
とりわけ南朝では華北から流入する人々によって長江中・下流域の人口が急増し、江南の開発が進んだ。こうした状況のもとで、荘園や隷属民を所有する豪族・貴族は穀物、野菜、畜産、水産物、手工業製品などを自給する総合的な経営を推し進めた。そのため、一般民衆との経済力の差はますます開いていった。

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