フリギア エラム イリュリア アッシリア 紀元前10世紀前後のオリエント地図
紀元前10世紀前後のオリエント地図 ©世界の歴史まっぷ

アッシリア Assyria (紀元前2000年紀-紀元前609年)

①古アッシリア時代-紀元前1950年頃-紀元前15世紀 ②中アッシリア時代−紀元前1365年-紀元前934年 ③新アッシリア時代−紀元前934年-紀元前609年
メソポタミア(現在のイラク)北部を占める地域、またはそこに興った王国。チグリス川とユーフラテス川の上流域を中心に栄え、後にメソポタミアと古代エジプトを含む世界帝国を築いた。アッシリアの偉業は、ペルシア帝国に受け継がれてその属州となった。紀元前612年、新バビロニアメディア王国により滅亡する。

アッシリア

首都: アッシュール、ニネヴェ

オリエントと地中海世界
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

セム語系のアッシリア人は、ティグリス川上流の北メソポタミアに紀元前2千年紀の初めに建国した。アッシリアの名は、最初の首都アッシュルまたは同名の天神アッシュルに由来する。この地方は海抜500メートル台の天水農業地帯で、下流域のように大河の運んでくる沃土に頼る穀物栽培は不可能であった。そこでアッシリア人は内陸中継貿易に活路を求めた。アナトリア東部からは、アッシリア人の商業植民市の遺跡が発見されている。

紀元前15世紀に一時ミタンニに服従したものの、やがて独立を回復し、紀元前12世紀に東地中海全域を襲った民族大移動(紀元前1200年のカタストロフ)で、旧勢力(ヒッタイト、古バビロニアエーゲ文明など)が衰亡したあとをうけて強大な軍事国家となった。四方に遠征したアッシリア軍の装備や戦いぶり、その残虐さは、彼らが残した多くの浮き彫りによってよく知られている。紀元前8世紀後半になると征服活動に拍車がかかり、バビロニアからシリアへかけての地域を支配下におさめた。
アッシュールバニパル
ニネヴェの北宮殿を飾っていたアッシュールバニパルの浮き彫り。 ©Public domain
エトルリア 紀元前7世紀の世界(西)地図 紀元前7世紀アッシリア帝国 地図
紀元前7世紀の世界(西)©世界の歴史まっぷ

紀元前7世紀の前半にはエジプトも征服して、オリエントの主要部分を統一した最初の世界帝国が出現した。首都ニネヴェに大図書館を建設したことでも知られるアッシュル=バニパル王のときに、その版図は最大となった。アッシリア王はこの広大な領土を州に分け、各地に総督をおいて統治した。また駅伝制を設けて中央集権の強化をはかった。有名な強制集団移住政策は、被征服民の反乱を防止するとともに、領内の労働力の適正配置をねらったものでもあった。

しかしその支配があまりにも強圧的で過酷であったため、各地に反乱が相つぎ、さしもの大帝国も間もなく崩壊した。
まず紀元前7世紀の中ごろにエジプト第26王朝が独立、次いでイラン高原にインド=ヨーロッパ語系のメディア王国が、また小アジアに同系のリディア王国が成立した。さらに、メソポタミア南部に移動していたアラム人の一派と思われるカルデアは、紀元前625年にバビロンを都として新バビロニア(カルデア王国)を樹立すると、メディアと同盟してアッシリアを攻め、紀元前612年にニネヴェを陥れてこれを滅ぼした。このようにしてアッシリアによる統一が崩れたあと、オリエントは、メディア王国リディア王国新バビロニア、エジプト第26王朝(新王国)の4国が併立する形勢となった。なかでも、メソポタミアからシリア・パレスチナへかけての「肥沃な三日月地帯」を支配した新バビロニアがもっとも優勢であった。ネブカドネザル2世の時代(紀元前605年-紀元前562年)が最盛期で、首都バビロンは繁栄し、世界七不思議のひとつに数えられる「空中庭園」などもつくられた。

アッシリア軍の強さ

アッシリア軍の中核は陸軍で、鉄製武器や強力な弓で武装した歩兵、騎兵、戦車隊、それにのちのローマ軍と同じように、土木技術を身につけた工兵隊で編成されていた。艦隊の建造にはフェニキア人があたり、築城や攻城のためには、長い経験をもつシリアの工人たちが用いられた。またアッシリアの王たちは、治世の大半を陣営のなかで過ごした。

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