アヘン戦争(中国の近代の起点) 19世紀、産業革命を達成したイギリスをはじめとする欧米諸国が、強大な経済力と軍事力を武器に、中国への積極的な経済進出と侵略を開始した。アヘン戦争を契機とする欧米列強の中国進出は、政治・経済・文化など、あらゆる面で伝統的中国社会に厳しい衝撃と動揺を与えた。これを一般にウェスタン=インパクト(西洋の衝撃)と呼んでいる。
アヘン戦争(中国の近代の起点)
19世紀に入り、清朝が衰退にむかっていったその時期に、産業革命を達成したイギリスをはじめとする欧米諸国が、その強大な経済力と軍事力を武器に、中国への積極的な経済進出と侵略を開始した。こうした欧米列強と清朝中国との最初の武力衝突がアヘン戦争(1840〜42)であった。この戦争でイギリスに惨敗した中国は、以後欧米列強の厳しい経済進出と侵略にさらされ、しだいに半植民地化の道をたどることになった。また、この敗戦と欧米近代文化の流入は、それまでの伝統的な中華思想、すなわち中国中心・中国文化至上の世界観を大きくゆるがしていった。このように、アヘン戦争を契機とする欧米列強の中国進出は、政治・経済・文化など、あらゆる面で伝統的中国社会に厳しい衝撃と動揺を与えた。これを一般にウェスタン=インパクト the western impact (西洋の衝撃)と呼んでいる。その後の中国は、半植民地の進行という困難な情勢のなかで、外圧への抵抗をつうじて、伝統的社会からの脱皮を模索し、実現していかなければならなかった。その意味で、アヘン戦争は中国の近代の起点として認識されるものである。
三跪九叩頭礼 三跪九叩頭の礼とは、臣下が皇帝に対面するときの儀礼で、3度ひざまずき、そのたびに3回ずつ頭を床につけて拝礼するものである。マカートニーは乾隆帝との会見に際し、この三跪九叩頭礼を求められて拒否したが、乾隆帝はイギリス人は礼儀を知らぬ野蛮人であるからとして、特別に三跪九叩頭礼を免除して謁見を許した。アマーストは、嘉慶帝への三跪九叩頭礼を求められて拒否したが、今度はそのために会見を許されず、むなしく帰国するほかなかった。
アヘン輸入の増加と銀価の高騰
アヘンの輸入量は、1800年〜01年の約4600箱(1箱は約60Kg)から、1830〜31年には約2万箱、アヘン戦争前夜の1838〜39年には約4万箱に達した。このため1830年代末には、アヘンの代価として清朝の国家歳入の80%に相当する銀が国外に流出したという。こうした銀の大量流出は、中国国内の銀の流通量を減少させ、銀価の高騰をもたらした。乾隆時代には銀1両(1両は約37g)は銅銭700〜800文と交換されていたが、1830年には銀1両は銅銭1200文となり、1830年代末には最大で銅銭2000文に達した。地丁銀の税額は、銀何両というかたちで指定されるが、農民が実際に作物を打って手にするのは銅銭であったから、納税の際には、手持ちの銅銭を銀に換算して納付しなければならなかった。したがって銀価が倍に高騰するということは、農民にとっては税金が倍に増えるということに等しかったのである。「不正義の戦争」 – イギリスにおける主戦論と反対論
アヘン戦争は、「自由貿易の実現」という大義名分を掲げておこされたが、その実、アヘンという麻薬販売による巨大な利益を失うまいとして始められたものであった。こうした史上にもまれな「不正義の戦争」に対してはイギリス国内でも強い反対論があり、後年の自由党党首グラッドストンなどは、議会で激しい反対演説をおこなっている。しかし、外相パーマストンをはじめとする主戦論者は、市場拡大を求める産業資本家や大商人の支持を背景に、開戦を断行したのである。パーマストンは、のちのアロー号事件の際には首相の地位にあり、この時も戦争反対を決議した下院を解散して開戦を断行している。このとき、下院で戦争反対を唱えた政治家には、穀物法廃止で有名な自由貿易論者コブデンがいた。- 香港島の割譲
- 上海・寧波・福州・厦門・広州の5港開港
- 公行の廃止による完全な自由貿易化、
- 賠償金2100万ドルの支払い
最恵国待遇
最恵国待遇とは、ある国が複数の国と条約を結んでいる場合、そのうちのA国に対しとくに有利な取り決めを行なった場合、その取り決めは、A国以外のすべての条約締結国にも自動的に適用されるというものである。近代国家間では、相互に最恵国待遇を与えるのが通例であるが、清と欧米列強との条約では、清側のみが一方的に相手国に最恵国待遇を与えるという、不平等なものであった。租界 concession
イギリスは、虎門寨追加条約により、開港場において土地を借り入れることを認められ、のちには借り入れた土地ではイギリスが行政・司法・警察権を保有することも認めさせた。このような土地を租界といい、こうした条件で土地を借り入れることを租借という。これは中国国内に外国領が設けられるに等しかった。やがて他の列強もイギリスにならって各地に租界を設定し、中国の半植民地化を推進していった。アヘン戦争と日本
アジアの大帝国清の無残な敗北は、日本にも大きな衝撃を与えた。江戸幕府は、異国船打払令を緩和して欧米諸国との無用の衝突を回避する一方、高島秋帆らを登用し、西洋式砲術を採用して海防の強化に努めた。また、林則徐の同志であった魏源の『開国図志』(欧米を含む世界の地理と情勢を記す)がいち早く輸入され、その「外国の優れた軍事技術を習得して外国を打ち払う」という主張は、時流に鋭敏な武士たちに広く共感をもって読まれた。また、こうした「清朝の失敗をくりかえすまい」という意識は、軍事のみならず、より広範な洋学学習への道をも開いていった。❶ アヘン:アヘンは消しの乳液から作られる麻薬で、モルヒネをはじめ約20種のアルカロイドを含む。強い習慣性があり、長期常習の結果、心身ともに衰弱して廃人にいたる。アヘンは、清のはじめにオランダ人によってもちこまれたが、1729年に雍正帝により禁令がだされていた。
❷ アヘン貿易:こうしたアヘン貿易によって巨利をあげたイギリス商人の代表が、ジャーディン=マセソン商会であり、アヘン戦争に際しても背後で重要な役割を果たした。
❸ 領事裁判権:中国国内における外国人の犯罪は、中国駐在のその国の領事が裁判を行うというもの。
❹ 協定関税:関税は一国の国内問題であるから、関税率は当事国が任意に定める権利をもつというのが近代国家の原則であるが、虎門寨追加条約では、清朝は関税率を任意に定める権利を認められず、貿易相手国(欧米列強)との合意が必要とされた。