イギリスの封建社会と身分制議会 11世紀、イギリスの封建社会はノルマン朝において確立された。王権を強化し、フランスなどとくらべてもきわめて集権的な封建国家が成立した。12世紀半ばに王位をめぐる内乱がおこるとフランスのアンジュー伯がヘンリー2世として即位し、プランタジネット朝を開き、アキテーヌ侯のエレアノールと結婚するなどして、ほぼフランス西半部を領有し、大陸とイギリスにまたがる大帝国を建設した。また、対内的には行政・司法制度を整備して王権強化に努め、イギリス封建王政の盛期を現出した。
イギリスの封建社会と身分制議会
ノルマン朝(1066〜1154)
イギリスの封建社会はノルマン朝において確立された。ウィリアム1世(イングランド王)は、征服の過程で土着のアングロ・サクソン貴族の土地を没収し、配下のノルマン貴族らに騎士的奉仕の代償として授封した。そして、1085年より1年がかりで全国規模の検地を実地し(この検地帳がドゥームズデイ・ブック)、王権を強化した。それは、フランスなどとくらべてもきわめて集権的な封建国家の成立を意味した。
ドゥームズデイ・ブック:domesday (doomsday) とは「最後の審判 the Last Judgement の日」の意味であり、測量調査の厳正ぶりを「最後の審判」にたとえて、こう呼ばれるようになった。
プランタジネット朝(1154〜1399)
しかし、12世紀半ばには王位をめぐる内乱がおこり、結果的にフランスのアンジュー伯がヘンリー2世(イングランド王)として即位し、プランタジネット朝を開いた。
ヘンリー2世はアキテーヌ侯のアリエノール・ダキテーヌと結婚するなどして、ほぼフランス西半部を領有し、大陸とイギリスにまたがる大帝国(アンジュー帝国)を建設した。また、対内的には行政・司法制度を整備して王権強化に努め、イギリス封建王政の盛期を現出した。
次の獅子心王リチャード1世(イングランド王)は、第3回十字軍( 初期の十字軍 – 世界の歴史まっぷ)から帰国の途中オーストリア大公の捕虜となり、その身代金支払いや莫大な軍費負担に諸侯の不満はつのり、全面的な反抗を招くことになった。
続く欠地王ジョン(イングランド王)はフィリップ2世(フランス王)と争い、ノルマンディーをはじめ大陸領の大半を喪失し(1204)、父王ヘンリー2世のアンジュー帝国を崩壊させた。また、カンタベリ大司教の任命を巡ってインノケンティウス3世(ローマ教皇)と対立して破門され、屈服するという失態を演じた( 教会の権威 – 世界の歴史まっぷ)。その後大陸の旧領の回復をはかったが、国内の貴族に軍役を拒否され、さらには彼らの反乱を招くことになった(1215)。これにはロンドン市民も同調したため、ジョン欠地王は譲歩し、貴族たちの要求する条項に調印した。これが、いわゆる大憲章(マグナ・カルタ)である。
系図の全体はこちら 百年戦争前後のイングランドとフランスの君主一覧と系図 – 世界の歴史まっぷ