イスラーム社会の形成
イスラーム世界は町の中央に礼拝のためのモスクが建設され、これに付属する尖塔(ミナレット)からは、1日に5回、人々を礼拝に誘う呼び掛け(アザーン)が聞かれた。モスクに隣接して市場(バザール)設けることが、イスラーム都市の一般的な形態であった。
イスラーム社会の形成
ムスリムが多数を占めるイスラーム社会は、数世紀間にわたって徐々に形成された。7世紀半ばころまでに、アラブ人の大征服によって広大なイスラーム世界が成立すると、まず商人・職人・知識人などの住む都市部からイスラーム化が始まった。町の中央には、礼拝のためのモスクが建設され、これに付属する尖塔(ミナレット)からは、1日に5回、人々を礼拝に誘う呼び掛け(アザーン)が聞かれるようになった。古代オリエント世界では耳にすることのなかった、新しい「都市の声」である。
また、モスクに隣接して市場(アラビア語:スーク、ペルシア語:バザール)を設けることが、イスラーム都市の一般的な形態であった。これらの市場では、イスラーム教徒ばかりでなく、キリスト教徒やユダヤ教徒の商人・職人も社会的に重要な役割を演じていた。彼らは、被護民(ズィンミー)として、人頭税(ジズヤ)の支払いを条件に信仰の自由を認められ、行政や学問の分野で活躍するものも少なくなかった。
生産と消費活動の中心である都市には人口が集中し、9〜10世紀のバグダードは100万、14世紀のカイロはおよそ50万の人口を擁する大都市に発展した。これらの都市に食料を供給したのが、周辺に存在する農村であった。アラブの征服者は、徴税のために農村社会をそのまま温存し、イスラームへの改宗を強制することはなかった。しかし10世紀をすぎることまでには農民の改宗も徐々に進み、やがて農村にもモスクが建設されるようになった。また、都市や農村の周辺では遊牧民が牧畜生活を営み、定住民と密接な関係を保っていたことが西アジア社会の特徴である。彼らは定住民に羊肉や毛織物を供給する一方、政府の力が弱まれば、農民を率いて反乱を起こす危険性を常に備えていた。
金曜日の集団礼拝
イスラーム教徒は、金曜日正午になると街の中心部にあるモスクに集まり、メッカにむかって集団礼拝をおこなう。これは、人々の連帯意識を育むたいせつな行事であったが、これにさきだっておこなわれる説教(フトバ)も政治的に重要な意味をもっていた。説教のテーマは、信仰の問題、聖戦への参加の呼び掛け、減税の要求などさまざまであったが、説教はときのカリフやスルタンの名においておこなわれ、この名前を削ることは、街の人々が公に反乱を表明したことを意味していたからである。
イスラーム教徒には、信仰告白・礼拝・喜捨・断食・メッカ巡礼の努め(五行)を果たすことが求められる。これらの義務が定められたのにつづいて、9世紀ころにはイスラーム法が整い、さらに哲学や神学の発達によって、イスラーム信仰に関する議論はますます煩瑣なものとなっていった。これに対して、民衆の中から神との間に生き生きとした関係を取り戻そうとする運動がおこってきた。これがイスラームの神秘主義(スーフィズム)である。
神秘主義者たちは、夜、道場に集まり、くりかえし神の名を唱えたり、音楽に合わせて踊るなどの修行をつうじて、神との一体感をえることに努めた。12世紀以降になると、その指導者(聖者)を中心にして各地に神秘主義教団(タリーカ)が結成され、教団員の活動は都市の下層民や農民の改宗をうながす結果をもたらした。また彼らは、中国や中央アジア、アフリカ、インド、東南アジアなどにも進出し、各地の習俗を取り入れながら民衆の間にイスラームを広めていった。