テルミドールのクーデタと総裁政府
1794年7月28日 ロベスピエール派の死刑執行(作者不明/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

テルミドールのクーデタと総裁政府 革命政府が国外・国内で勝利をえた1794年、ロベスピエール派の完全独裁となり恐怖政治は一層強化された。7月27日(革命暦テルミドール9日)国民公会はロベスピエールを告発。ロベスピエール派を襲撃して逮捕し、裁判をへずに処刑し、恐怖政治は終止符が打たれた。1795年、国民公会は新憲法を制定し、総裁政府が成立した。

テルミドールのクーデタと総裁政府

戦争と共和制図
戦争と共和制図 ©世界の歴史まっぷ
革命政府が国外・国内で勝利をえた1794年の段階で、モンターニュ派の指導者間の対立と不信が表面化した。パリのサンキュロットの間に支持者が多かったエベール Hébert (1757〜1794)派は、民衆の過激な行動を扇動してきた。また、非キリスト教運動を進め、銀行家の逮捕など過激な主張をくりかえしてきたが、国民公会に対する蜂起計画を告発され、逮捕・処刑された。一方、ダントン派は恐怖政治の緩和を要求したが、ダントンの汚職が摘発され、処刑された。公安委員会を指導するロベスピエールが独裁権を握った。恐怖政治は一層強化された。革命裁判は迅速化がはかられ、1794年6月プレリアール法(草月)により、弁護・証人・予審を省いておこなうことができるようになり、処刑者の数は激増した。 しかし革命戦争の勝利は恐怖政治の正当化を困難にしていた。ブルジョワジーは経済活動の自由を要求し、労働者は賃金の統制に不満をもち、他方で恐怖政治は腐敗と結びついた。土地をえた農民は革命のそれ以上の進展を望まず、保守化する傾向をみせた。 公安委員会でもロベスピエールの独裁への反感が生まれ、国民公会ではロベスピエールにより告発されることを恐れる腐敗分子が反ロベスピエール派を形成した。
ロベスピエール派の死刑執行
1794年7月28日 ロベスピエール派の死刑執行(作者不明/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain
  1. Cidevant garde Meubles
  2. Entrée du ci-devant Jardin des Thuileries a la place de la Révolution
  3. Le faubourg St. Germain
  4. Sanson l’exécuteur de Paris
  5. Le traitre Lebas qui s’est brullé la Cervelle
  6. Le traitre Couthon déjà exécuté
  7. La tête du dit scélérat
  8. Le traitre Robespierre le jeune
  9. Hanriot ex commandant de la Garde Nationale parisienne
  10. Le tyran Robespierre l’ainé
  11. Dumas ex-président du Tribunal Révolutionnaire
  12. Le scelerat Saint-Just
  13. Lescot Fleuriot ex Maire de Paris
  14. Les 14 autres complices assis sur 2 charrettes
1794年7月27日、革命暦でテルミドール Thermidor (熱月)9日、国民公会はロベスピエールを告発、ロベスピエール派の逮捕を決定した。ロベスピエールらはいったん支持者により釈放されたが、国民公会も部隊を集め、ロベスピエール派を襲撃して逮捕し、裁判をへずにただちに処刑した(テルミドールのクーデタ)。 このテルミドールのクーデタで恐怖政治は終止符が打たれ、国民公会では穏和派が主導権を握った。公安委員会の権限は縮小され、プレリアール法も廃止された。革命裁判は改組され、ジャコバン=クラブも閉鎖された。しかし、革命政府は安定性、権力の集中性、反革命勢力の鎮圧力を失った。統制が撤廃され経済活動の自由が認められたが、買い占めや投機により物価は高騰した。これに反対する民衆(サンキュロット)運動は抑えられた。反革命派や王党派が勢いづき、恐怖政治の報復として、白色テロが横行した。 1795年、国民公会は新憲法を制定し、秩序の安定をはかった(1795年憲法)。財産額によって資格が制限された選挙で選ばれる二院制の議会と、5人の総裁により構成される政府がつくられることとなった。10月に成立した総裁政府 Directoire は共和制維持と社会秩序の回復を宣言した。しかし、総裁政府は左右両勢力の攻撃により動揺する不安定な政権であった。 王党派は総裁政府を発足直前にパリで反乱をおこした。これはナポレオン将軍に鎮圧されたが、1796年には平等主義を唱えるバフーフ Babeur (1760〜97)の総裁政府打倒の計画が発覚した(バフーフの陰謀)。左派と右派は毎年のようにクーデタをくりかえした。対外的には軍事的勝利が続いていた。フランスはオランダを征服し、1795年プロイセンと講和を結び、ナポレオン=ボナパルトのイタリア遠征の勝利でオーストリアと1797年カンポ=フォルミオの和約 Compo-Formio を結び、第1回対仏大同盟を崩壊させた