アンティゴノス朝マケドニア 3.イラン文明 バクトリアとパルティア アッタロス朝 ポントス 紀元前200年頃の西アジア地図
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ
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バクトリアパルティア

バクトリアは、セレウコス朝の支配が低下するのにともない、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立してバクトリア王国(紀元前255年〜紀元前139年)をたてた。マウリヤ朝の衰退に乗じてインダス川流域のインド北西部にまで勢力をのばしたが、内紛がおこり、また西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化し、紀元前139年にはトハラ人によって滅ぼされた。
カスピ海南東のパルティア地方では、イラン系遊牧民がパルニ属の族長・アルサケスに率いられてパルティア王国(アルサケス朝 紀元前248/247年〜紀元後224年)をたてた。2世紀の初頭にはトラヤヌス帝の率いるローマ帝国軍がクテシフォンを占領して弱体化し、224年、ササン朝によって滅ぼされた。

バクトリアとパルティア

パルティア
オリエントと地中海世界 ©世界の歴史まっぷ

属州時代

アケメネス朝 新思想の成立 マガダ国 紀元前500年前後 アケメネス朝ペルシア版図 と周辺諸国の地図 アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図
アケメネス朝ペルシア版図と周辺諸国地図 ©世界の歴史まっぷ

ザグロス山脈の東方、アフガニスタンにいたる広大な地域は、イラン系民族の居住地であった。この地域の大部分は高原性台地であるが、砂漠もあれば、農耕を可能にする降雨や水流がえられる地方もあった。このような自然条件に対応して、住民は地域により農耕遊牧で生計を立ててきた。アケメネス朝(紀元前550〜紀元前330)のもとでは属州に編成されて発展したが、紀元前4世紀後半にアレクサンドロス3世に征服され、その死後はセレウコス朝(紀元前312年〜紀元前63年)の支配下におかれた。セレウコス朝は当初バクトリアからアナトリアやシリアまでを領域とし、都市化政策を推進した。イラン地方にも都市建設をおこない、多数のギリシア人を入植させた。しかしやがてセレウコス朝の支配が低下するのにともない、各地の有力家系が王朝をきずいて独立した。

バクトリア

アンティゴノス朝マケドニア 3.イラン文明 バクトリアとパルティア アッタロス朝 ポントス 紀元前200年頃の西アジア地図
紀元前200年頃の西アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

もっとも早く離反したのはアム川上流域のバクトリアで、紀元前3世紀半ばにギリシア人総督が独立してバクトリア王国(紀元前255年〜紀元前139年)をたてた。その後バクトリア王国は、マウリヤ朝の衰退に乗じてインダス川流域のインド北西部にまで勢力をのばしたが、内紛がおこり、また西方のパルティアや北方のスキタイ系遊牧民に圧迫されて弱体化し、紀元前139年にはトハラ人によって滅ぼされた。この王国はギリシア人がたてた国であったため、ヘレニズム文化が栄えた。その文化はのちのクシャーナ朝に大きな影響を与え、ガンダーラ美術を生み出すことになった。

トハラ人はスキタイ系遊牧民の一派。バクトリア王国を倒したが、紀元前1世紀には大月氏に支配された。中国史料に現れる大夏ではないかといわれる。

パルティア

大月氏国 冒頓単于 スキタイと匈奴 漢の興起 月氏 バクトリア王国 パルティア 紀元前2世紀後半の世界地図
紀元前2世紀後半の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

バクトリアの独立に刺激され、カスピ海南東のパルティア地方では、イラン系遊牧民がパルニ属の族長・アルサケス1世に率いられてパルティアは独立し、パルティア王国(アルサケス朝 紀元前248/247年〜紀元後224年)をたてた。そしてセレウコス朝と争いつつ領土を西へと広げた。

中国ではこのパルティア王国を、建国の祖アルサケスの名にちなんで「安息あんそく」と呼んだ。

紀元前2世紀半ばのミトラダテス1世のときに国力はさかんとなり、セレウコス朝の東の都・ティグリス河畔のセレウキアを陥れると、その対岸のクテシフォンに冬営地を設けた。各地を転々としていたパルティアの首都は、やがてこのクテシフォンに定まった。
その領域は東方ではバクトリア・大月氏・クシャーナ朝と国境を接し、西はユーフラテス川にいたる広大なものであった。この領土を支配するためにパルティアの王たちは、アケメネス朝の統治組織を継承して中央集権制を確立しようと努めた。
アケメネス朝の王にならって「諸王の王」と称し、属州には有力家系の知事を配置し、交通路の整備にも力を注いだ。しかしパルティア国家は、有力家系の連合体という性格を最期まで脱することができず、そのため国内の地方勢力の台頭を抑えることもできなかった。他方、征服者であり支配者である遊牧民と、被征服者である先住農耕民との融合は徐々に進み、文化的には征服者が被征服者の影響をうけるという現象が起こった。

内陸アジア隊商路だけでなく、海上ルートの要所であるペルシア湾をも押さえたパルティアは、東西交易の利益を独占しておおいに繁栄した。後漢班超はんちょうがローマ(大秦国)とつうじようとして甘英かんえいを派遣した時、パルティア(安息あんそく)がこれを妨害したのは、この利益が侵されるのを恐れたからであった。西に向かう商品は絹・香料・象牙・宝石などであり、ローマからは青銅やガラスの工芸品・ブドウ酒・オリーブ油・金をうけとった。

パルティアにとって最大の敵となったのは、東方進出をはかるローマであった。紀元前1世紀にセレウコス朝を倒したローマのさらなる東進を阻止するため、パルティアもシリアに進出した。紀元前53年には共和制ローマの三頭政治家のひとりマルクス・リキニウス・クラッススを敗死させた。
しかし2世紀の初頭にはトラヤヌス帝(ネルウァ=アントニヌス朝)の率いるローマ軍がクテシフォンを占領し、ペルシア湾頭にまで達した(パルティア戦争)。その後両国間には一進一退の小競り合いが続いたが、パルティアの国力はしだいに衰退し、ついに224年、ササン朝によって滅ぼされた。

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