フランク王国の発展とイスラームの侵入 フランク人を統一したクロヴィス1世が領土をほぼガリア全域に広げ、アタナシウス派キリスト教への改宗(496年)により、ローマ系住民やカトリック教会との関係の円滑化に成功し、イタリアの東ゴート族と並ぶ強国になった。クロヴィスの死後、王権はおとろえ、かわって各分国の宮宰が実権を掌握することになった。
フランク王国の発展とイスラームの侵入
フランク人を統一したクロヴィス1世は、まもなく西ローマ帝国衰亡後もガリア北部に残ったローマ人支配地域(シアグリウスの国)を征服すると(486年)、つづいてアレマン人・ブルグント人・西ゴート人を破り、領土をほぼガリア全域にまで広げていった。こうしてフランク王国はイタリアの東ゴート族と並ぶ強国になった。

フランク王国では分割相続をとったため、クロヴィスの死後(511年)に王国は分裂と統一をくりかえし、6世紀後半にはアウストラシア(東部)・ネウストリア(西部)・ブルグンド(南部)の3分国制が成立した。
それとともにメロヴィング朝の王権はおとろえ、かわって各分国の宮宰が実権を掌握することになった。

宮宰:マヨル・ドムス major domusの訳語であり、元来は王家の家紋をつかさどるのが仕事であったが、しだいに国内行政の最高職になり、フランク王国では各分国にも設置された。
中でもアウストラシアの宮宰であったカロリング家のピピン2世(中ピピン)は、7世紀末に対立するネウストリアの宮宰を打倒し、王国の再統一をはかった。
ピピン2世(中ピピン)が没し、その子カール・マルテルが宮宰になった8世紀初頭にはイスラーム軍がイベリア半島の西ゴート王国を滅ぼし(711年)、ピレネー山脈を超えてフランク領内に侵入してきた。カール・マルテルは騎士団を編成してこれを迎え撃ち、トゥール・ポワティエ間の戦いで勝利した(732年)。
カロリング家の権威は絶大なものとなり、マルテルの子ピピン3世(小ピピン)は、751年ザカリアス(ローマ教皇)の同意のもとにメロヴィング家の王国キルデリク3世を廃し、みずから王位についてカロリング朝を開いた。