モンゴル帝国の成立 モンゴル高原東北部のオノン川付近で遊牧をしていたモンゴルは、有力な指導者テムジン(鉄木真)のもとに統一され、タタール、ケイレト、ナイマンなどの諸部族をつぎつぎと破り、モンゴル高原を制覇した。クリルタイで、テムジンは、チンギス=ハン(成吉思汗)の称号を受け、モンゴル帝国が誕生した。
モンゴル帝国の成立
モンゴル高原を約1世紀にわたって支配してきたトルコ系のウイグルは、9世紀中ごろ、内乱とキルギスの侵入によって瓦解し、ウイグル人は西方または南方へ移住していった。
その後、モンゴル高原の東部にはタタール、モンゴルをはじめとするモンゴル系諸部族が拠り、西部にはマイナンなどのトルコ系諸部族が割拠したが、統一勢力は現れなかった。
10世紀初め、モンゴル高原の東部に契丹が遼(遼朝)を建国すると、これらの諸部族の多くはいったんは遼に服従した。
12世紀初め遼は滅亡し、かわって女真の金(王朝)が中国東北地方から中国北部を支配するようになった。中原進出をはかる金王朝は、背後のモンゴル高原におけるモンゴルの台頭を恐れ、タタールを利用してモンゴルの分裂をはかった。
金王朝は、辺境地帯の遊牧民を招集して、糺軍という傭兵部隊を組織した。なかでも強力なタタール糺軍を利用し、モンゴル部族の首長を捕らえて殺害し、分裂を促した。
この時、ナイマンの王子のクチュルクは西遼(カラ・キタイ)に逃れ、その国を奪って西遼王となり、モンゴルと対抗した。1218年、モンゴル軍の攻撃をうけてクチュルクは殺され、西遼も滅んだ。
1206年、オノン川上流で一族、功臣を集めて開かれたクリルタイで、テムジンは、チンギス=ハン(成吉思汗)の称号を受け、モンゴル帝国が誕生した。
クリルタイ:モンゴル語で集会という意味で、有力者が参集して、ハンの選出、遠征の決定、法令の発布などの国家的重要事項を議題とした。のちの皇位継承にともなう相続争いは、クリルタイにまつわる弊害と考えることもできる。
帝国では旧来の部族制に変わって全遊牧民を1000戸単位の集団に区分して編制し、戦時には約1000人の兵士を動員する千戸制という軍事、行政組織がしかれ、その長にはチンギス=ハンの一族、功臣が任命された。また功臣の子弟を集めて親衛軍(ケシク)を編制し、千戸制とともに強力な軍事力の基礎とした。
千戸制とケシク
チンギス=ハンは、千戸制によって支配下のモンゴル系、トルコ系の遊牧民を95(一説に129)の千戸単位の集団に分割し、一族、功臣をその千戸長に任命した。 千戸制は、平時の行政単位であるとともに、戦時には、1000人の兵士を動員する戦術単位でもあり、その内部も十進法によって百戸、十戸単位に組織され、それぞれ百戸長、十戸長が任命された。 このように遊牧民を十進法体系で組織する習慣は、匈奴以来の遊牧民にしばしばみられたが、チンギス=ハンは、タタール、ケイレト、ナイマンなどの敵対部族を征服すると、その部族民を各千戸集団に振り分け、人工的な部族組織を編制した。 95戸の集団のうち24戸は一族に与えられたが、残りはチンギス=ハンのもとで指揮官が任命されてモンゴル高原に展開した。 中央にはケシクと呼ばれるチンギス=ハンみずから指揮する親衛軍がおかれた。ケシクは兵力1万の軍隊で、兵士は功臣や千戸長、百戸長、十戸長の子弟から集められた、いわばエリート集団であった。平時は護衛や宮廷の職務に従い、戦時にはチンギス=ハンのもとで戦闘に参加した。要職にはケシクの構成員が派遣され、その子弟が新たにケシクに加わった。ケシクは、チンギス=ハンを中心に強力な連帯意識をもった親衛軍であるとともに、モンゴル帝国の支配階級の養成機関でもあった。チンギス=ハン
チンギス=ハンは、長城以南の農耕社会を攻略するための財政的基礎を築き、モンゴル帝国の東西を押さえるため、その率いるモンゴル軍を内陸の東西貿易路に進めた。 1209年、黄河上流の西夏を屈服させ、1218年には、ナイマンに奪われていた中央アジアの西遼を滅ぼしてイスラーム世界と国境を接することになった。(西夏遠征) さらにチンギス=ハンは、モンゴルの通商使節が殺害されたことを口実に、西トルキスタン、イランを支配するイスラームの新興国家ホラズム・シャー朝(1077〜1221)に対して遠征を行なった。モンゴル軍は、ブラハ、サマルカンドなどのオアシス都市をつぎつぎと攻略し、1221年、ホラズム・シャー朝を滅ぼし(正式には1231年滅亡)、インダス川上流の西北インドまで侵入した。 チンギス=ハンの西征 – 世界の歴史まっぷオゴタイ=ハン
クリルタイ(モンゴルの最高意志決定機関)で推されて即位した第3子のオゴタイ=ハン(オゴタイ)(1229〜1241)は、チンギス=ハンの初めた征服事業を継承して三方から金(王朝)を攻略し、1234年、首都汴京(開封)を占領したのち、南宋と共同して金を滅ぼした(第二次対金戦争)。 1235年、オゴタイは、モンゴル高原のオルコン川右岸のカラコルム(和林)に都城を定め、中国風の宮殿を築いた。内政面では、チンギス=ハンに仕えた耶律楚材を重用し、征服地の戸口調査を実施して新しい税制を設定するなど、帝国の行政、徴税機構の整備を始めた。耶律楚材:金朝に仕えていた、かつての遼の王族の家に生まれた。中都が陥落したときにチンギス=ハンに見出され、オゴタイにも仕え、文人官僚として活躍した。