三・一運動とモンゴルの独立
三・一運動(ソウルのタプコル公園前に設置された日本のバリケード/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

三・一運動とモンゴルの独立

日本は、1910年の韓国併合以来、朝鮮総督府による厳しい植民地対策をとっていた。これは憲兵や警察などによって朝鮮民衆を厳しい監視・統制のもとにおき、朝鮮を従属的な地位におこうとするもので、武断政治と呼ばれている。しかし第一次世界大戦後、ロシア革命や民族自決主義の影響をうけて、朝鮮民衆の自覚が高まり、独立への要求が生まれてくるにいたった。

三・一運動とモンゴルの独立

日本は、1910年の韓国併合( 日本の韓国併合)以来、朝鮮総督府による厳しい植民地対策をとっていた。これは憲兵や警察などによって朝鮮民衆を厳しい監視・統制のもとにおき、朝鮮を従属的な地位におこうとするもので、武断政治 と呼ばれている。しかし第一次世界大戦後、ロシア革命や民族自決主義の影響をうけて、朝鮮民衆の自覚が高まり、独立への要求が生まれてくるにいたった。

1919年3月1日、ソウルに33名の民族代表が集合し、当時開催中のパリ講和会議で民族自決の原則が掲げられるなど、折からの民族自決主義の高まりのなかで、独立宣言を発表した。この集会に集まっていた学生・市民は、このあと独立万歳を叫んで大規模なデモ行進をおこない、これを契機として三・一運動は各地に波及し、約200万の民衆が参加するにいたった 。運動は多様であり、独立宣言書の配布・集会・デモ行進・ストライキが展開され、農村では日本の治安当局に武力闘争をしかけた。朝鮮総督府は、武力をもってこの運動を抑えようとした結果、両者の武力衝突が約3ヶ月にわたって激しく展開し、その間、朝鮮民衆に約8000名の死者をだすにいたった。この運動は、日本の統治政策に大きな反省を与えた。従来の武断政治は改められ、強圧策を後退させて文化政治と呼ばれる新しい支配政策に移行し、日本内地と朝鮮の制度較差を縮小することによって、朝鮮民衆の懐柔がはかられた。なおこの年4月には朝鮮の独立運動団体を統合して、大韓民国臨時政府が上海で結成された。

この運動は、「独立万歳」をさけんだことから万歳事件ともよばれる。この運動を境として朝鮮の対日独立運動は武装闘争の方式に移った。

一方、清朝の支配下にあったモンゴルでは、1911年の辛亥革命に際し、外モンゴルの貴族諸侯が中心となり、活仏ジェブツンダンパをハンにいただいて、モンゴル人の独立国家を形成した。しかしその後、中国の圧迫により、独立はほとんど名のみの状態となったが、ロシア革命の影響により、1920年代以後、民族主義的傾向が強まり、スヘ=バートル Sukhe Bator (1894〜1923)、チョイバルサン Choibalsan (1895〜1952)などがモンゴル人民革命党を結成し、ソヴィエト=ロシアの援助をえて勢力を拡大した。そして1924年7月、共和政宣言を発して人民共和国となり、首都をウランバートルに定め、1940年までを1期として近代化政策や社会主義体制の樹立に努めた。