義浄 人物の往来 大旅行家の行程地図
大旅行家の行程地図 ©世界の歴史まっぷ

人物の往来

  • 張騫 (紀元前139年〜紀元前126年)前漢 武帝の命で大月氏国
  • 甘英 (197年〜)後漢 班超の命でローマ帝国へ(未到達)
  • 大秦王安敦の使者 (166年) ローマ帝国 ローマから漢へ
  • 法顕 (399年〜412年) 東晋の僧 陸路でインドへ 『仏国記(法顕伝)』
  • 玄奘 (629年〜645年) 唐の僧 陸路でインドへ 『大唐西域記』
  • 義浄 (671年〜695年) 唐の僧 海路でインドへ 『南海寄帰内法伝』
  • ウィリアム・ルブルック (1253年〜1255年) フランス王国 ルイ9世(フランス王)の命で唐へ 外交
  • マルコ・ポーロ (1271年〜1295年) ヴェネツィア共和国から元へ 商人 『世界の記述(東方見聞録)』
  • イブン・バットゥータ (1325年〜1355年) モロッコから旅行家 約30年間にわたり、アジア各地やアフリカ、スペインなどを旅行。 『三大陸周遊記』

人物の往来

大旅行家の行程地図

東西を往来した人々をみると、あるものは国の使者として、またあるものは商人として、またあるものは宗教者として、その目的は多様であった。しかし、いずれも東西の文化や事情を伝え、新しい時代の先駆けとなった点で、極めて重要な役割を果たしている。

張騫

シルク・ロードの交通に、大きな役割を果たしたのが張騫(?〜紀元前114)の西域旅行である。張騫は、紀元前139年頃から紀元前126年頃にかけて前漢武帝(漢)の命を受けて大月氏国へ赴いた。当時漢に敵対する匈奴を挟み撃ちにするための同盟を結ぶことが目的であった。彼は途中匈奴に捕らえられ、10年近くを匈奴で過ごしたが、抜け出して大宛(フェルガナ)康居こうきょをへて大月氏国にたどり着いた。しかしアム川の上流に安定した国家を営んでいた大月氏国では、武帝(漢)の同盟策は受け入れられなかった。こうして張騫は帰国したが、帰国後、彼のもたらした西域の情報は、中国人にとって極めて魅力的であった。名馬として知られ、1日に千里走ると言われた大宛の汗血馬かんけつばや于闐(コータン)のぎょくは、極めて魅力的な品であった。また中央アジアにおいても、中国の使者がもたらした絹などの品々を珍重した。ここに、後世シルク・ロードと呼ばれる交易路が出来上がるのである。

この後、197年には後漢の西域都護班超はんちょうの部下である甘英かんえいが大秦国(ローマ帝国)への使者として派遣され、地中海沿岸にいたったと言われ、さらに166年には大秦王安敦マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使者が、海路を経由して中国にいたっている。このようにローマ・漢という東西の両大国の間にも幾らかの交流が知られるが、本格的な交流にはならなかったようである。この後、往来した人々をみると、仏教を中心として宗教者に著名な人物が多い。

仏僧の往来

インドにおこった仏教は、大きく大乗仏教と上座部仏教(小乗仏教)に分かれ、大乗仏教は中央アジアを経由して中国に伝わり、日本をはじめとする東アジア諸国に伝播した。また上座部仏教は、カイロを経由して東南アジア諸国に伝播した。大乗仏教はおおよそ紀元前3世紀には中央アジアに伝播し、後漢時代の1世紀に中国に伝わっとという。中国において仏教が急速に広まったのは3世紀のの頃からで、朝鮮半島には4世紀、日本には遅くとも6世紀には伝わった。また、東南アジア方面にも5、6世紀頃までには広まった。
仏教伝来要図
仏教伝来要図©世界の歴史まっぷ

こうした仏教の伝播は、多くの僧侶の往来によって成し遂げられたものである。西域から中国を訪れた高僧に、仏図澄ぶっとちょう(ブドチンガ、クチャ(亀茲)の人 ?〜348)、鳩摩羅什くまらじゅう(クマーラジーヴァ、クチャ(亀茲)の人 344〜413)がおり、布教や仏典の翻訳に活躍した( 晋南北朝の文化)。また代の中頃、海路によって中国にいたり、密教を大成した不空ふくう(北インドの人 705~774)などは特に名高い。中国からインドへ仏教の経典を求めて旅だった僧侶も多い。東晋法顕ほっけん(337〜422)は、陸路によってインドに赴き、海路により帰国し、帰国後『仏国記(法顕伝)』を記した。唐では、玄奘げんじょうが陸路によってインドへ行き、帰国後『大唐西域記』を口述し、義浄ぎじょうは海路によってインドに赴き、その著『南海寄帰内法伝』は名高い。

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玄奘のインド旅行

玄奘三蔵
玄奘三蔵像 (東京国立博物館蔵/鎌倉時代重文) ©Public Domain

玄奘げんじょうは、唐初に陸路によってインドに赴いた僧侶で、彼の口述による『大唐西域記』は、旅行記として当時の西域やインドの様子を知るために重要なものである。また彼は、後世『西遊記』の三蔵法師として庶民にも親しまれることとなった。
彼の青春時代は、隋から唐への混乱時代で、社会不安を背景に、仏教教理の研究が盛んであった。仏教教理の中でも特に難解な唯識ゆいしきの教理を探求していた彼は、直接サンスクリット経典を研究することを思い立った。
唐ははじめ、対外関係上、外国への旅行を禁じていたので、国禁を犯しての出国となった(629)。彼のとったルートは玉門関ぎょくもんかんから天山北路をとり、高昌こうしょう(トゥルファン)を経て、西突厥の援助などを受けながら、サマルカンドを経てアフガニスタン、西北インドへと進んだ。当時のインドは、ハルシャ・ヴァルダナ(在位:606〜647)の治世で、北インドではグプタ朝以来しばらくぶりの平安な時代であった。ハルシャ・ヴァルダナは仏教を保護したので、インド仏教の最後の繁栄の時代でもあった。しかし、かつての仏教の聖地ガンダーラはすでに荒廃しており、ガンジス川中流域(ビハール州南部)のナーランダーを訪れて、5年間勉学に没頭した。ハルシャ・ヴァルダナの援助も受けて、多数の経典や仏像を携えて帰国の途についた。
帰路に高昌(トゥルファン)が滅亡した(640)ことを知り、天山南路から于闐うてん(コータン)を通り、645年に帰国した。
すでに唐の治世は安定し、積極的に対外進出を目指そうという時代であり、玄奘は、仏教保護の国策と相まって太宗(唐)の保護を受けて、国家的事業というべき翻訳事業に着手した。彼の居住した大慈恩寺にはインドから持ち帰った啓典を収めるために塔が建てられた。これが現代まで残っている大雁塔だいがんとうであり、西安のシンボルともなっている。

大唐西域記

『大唐西域記』12巻は、インドへの旅行に際しての見聞により、中央アジア、インド、西アジアの約140国について国別に記した旅行記。土地の方位、里程、歴史や伝説も記し、原語を精密に漢字で表現しており、この地域のことを知るためには重要な文献である。

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西方人の往来

時代が下ると、ヨーロッパのキリスト教会からも使者が中国へ訪れるようになる。中国におけるキリスト教は、唐初(635)のネストリウス派景教)の伝来に始まる。景教は「唐代三夷教」の一つにも数えられ、中国人にも信仰されたが、唐の後半には衰えた。ヨーロッパのキリスト教が中国に伝わるのは、13世紀、モンゴル帝国によって内陸アジアの交通網が、駅伝制ジャムチ)によって整備され、ヨーロッパとの交流が開かれたことによる。フランシスコ修道会に属するプラノ・カルピニ(1182〜1252)、ウィリアム・ルブルック(1220〜1293)ジョヴァンニ・ダ・モンテコルヴィーノ(1247〜1328)( 東西文化の交流と元代の文化)らが次々と来朝し、またモンゴル側からラッバン・ソーマ(ラッバーン・バール・サウマ)(?〜1294)がヨーロッパに派遣された。カルピ二、ルブルックは、外交上の使者としての性格をもっていたが、モンテ・コルヴィノは、中国において、初めてカトリックを布教した。元朝の時代には、十字寺と呼ばれる教会も建てられ、ある程度の信者を獲得したが、次第にイスラーム教などに圧倒されていった。なお、中国への本格的なキリスト教の布教は、大航海時代を経た16世紀以降のこととなる。

ヨーロッパのキリスト教諸国にとって、異教徒のモンゴル帝国は、大変な脅威であり、外交関係も模索した。プラノ・カルピニは、インノケンティウス4世(ローマ教皇)の使者で、布教とともにモンゴルの内情を偵察することを目的としていた。ウィリアム・ルブルックは、ルイ9世(フランス王)の使者で、イスラームを挟み撃ちするのが目的であったといわれる。

またこの時代には、商品やさまざまな目的を持った旅行家が活発に往来した。こうした旅行家の中で、もっとも特記すべきは、マルコ・ポーロ(1254〜1324)であった。
彼はイタリアのヴェネツィアの人で、中央アジアを経由して中国にいたり、17年間滞在し、海路帰国した(1295)。帰国後は戦乱に巻き込まれ不遇であったが、獄中で口述した『世界の記述東方見聞録)』は、当時のアジアについての貴重な記事を多く含んでいる。特に「黄金の国ジパング」は、日本を誇張して記した部分もあったが、当時のヨーロッパ人の東方への憧れを掻き立たせ、大航海時代への遠因となったものとして知られている。
またイブン・バットゥータは、北アフリカ・モロッコ出身のイスラーム教徒の旅行家である。彼は1325年、22歳の時から約30年間にわたり、アジア各地やアフリカ、スペインにいたる12万キロメートルにおよぶ旅行を敢行し、彼の口述した記録は長く知られなかったが、今日『三大陸周遊記』として名高い。こうした西方人の往来と、それにともなう東方に関する知識の普及によって、ヨーロッパ人の東方に対する関心はしだいにに高まっていった。

『世界の記述(東方見聞録)』

ジパング(日本)は東海にあるお大きな島で、大陸から2400キロの距離にある。住民は色が白く、文化的で、物資に恵まれている。偶像を崇拝し、どこにも属せず、独立している。黄金は無尽蔵にあるが、国王は輸出を禁じている。しかも大陸から非常に遠いので、商人もこの国をあまり訪れず、そのため黄金が想像できぬほど豊富なのだ。
この島の支配者の豪華な宮殿について述べよう。ヨーロッパの教会堂の屋根が鉛でふかれているように、宮殿の屋根は全て黄金でふかれており、その価値はとても評価できない。宮殿内の道路や部屋の床は、板石のように、4センチの厚さの純金の板を敷き詰めている。…
現在の大ハンのフビライは、この島が極めて富裕なのを聞いて、占領する計画をたてた。

マルコ・ポーロ
マルコ・ポーロ
1271年、アジアに向けて船出するマルコ・ポーロを描いたミニアチュール。当時のヴェニツィアの海港都市としての繁栄ぶりが描かれている。
© COLLECTION OF THE BODLEIAN LIBRARY, OXFORD / GTRES

年表

諸地域世界の交流年表

紀元関連事項
紀元前6世紀スキタイ人、南ロシアで活躍
344アレクサンドロス3世の東方遠征開始
209冒頓単于即位、匈奴全盛
紀元前2世紀前漢の武帝(漢)即位、西域経営を推進
139張騫、大月氏に派遣される
紀元後97甘英、ローマ帝国に派遣される
166大秦国王安敦の使者、中国に至る
2世紀仏教が中国(後漢)に伝わる
399法顕(東晋の僧)、インドに赴く
401鳩摩羅什、洛陽に至る
600
621
長安にゾロアスター教寺院建立
629玄奘(唐の僧)、インドに赴く
635唐に景教(ネストリウス派)伝来
651頃唐にイスラーム教伝来
671義浄(唐の僧)、インドに赴く
694唐にマニ教伝来
700751タラス河畔の戦い、製紙法が西伝
10001096十字軍(〜1291)
12001219チンギス・カン、中央アジア遠征
1241ワールシュタットの戦い
1245プラノ・カルピ二、モンゴルへ出発
1252ウィリアム・ルブルック、モンゴルへ出発
1258フレグ、バグダードに入城
1275マルコ・ポーロ、大都に至る
1294モンテ・コルヴィノ、大都で布教
13001346イブン・バットゥータ、大都に至る
14001405鄭和の南海遠征(〜33)
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