官渡の戦い 分裂の時代 夷陵の戦い 後漢末期・三国時代の地図
後漢末期・三国時代の地図 ©世界の歴史まっぷ

分裂の時代

  • 220年 魏王朝の建国(曹丕
  • 221年 蜀王朝の建国(劉備
  • 222年 呉王朝の建国(孫権
  • 265年 晋(西晋)の建国(司馬炎・中国統一)
    • 306年 八王の乱(東海王が懐帝を擁立して実権を握る)
    • 316年 永嘉の乱(南匈奴が西晋を滅ぼす)
  • 317年 東晋の建国(司馬睿

分裂の時代

東アジア世界の形成と発展
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

後漢末、華北で張角がおこした黄巾の乱(184)を契機に反乱が各地におこり、地方の治安は著しく悪化した。これらの反乱を平定する実力のなくなっていた後漢の政府は、兵力をもつ豪族に官位を与えて地方の安定をはかろうとした。このような豪族勢力を結集するのに成功したのは、この時期、各地に割拠した軍事集団の指導者の中で、魏王朝(220〜265)の基礎を築いた曹操そうそうと、蜀王朝(221〜263)を建国した劉備りゅうび、および呉王朝(222〜280)の建国者である孫権そんけんであった。

後漢末期・三国時代の地図
後漢末期・三国時代の地図 ©世界の歴史まっぷ

魏の建国

後漢末の混乱の中から、もっとも頭角を現したのは曹操であった。曹操は、その本拠地であるきょ(河南省)に後漢の皇帝を迎えて実権を握り、その命令をうけるかたちで、華北の大部分を平定した。その子の曹丕そうひ(文帝(漢)位220〜226)は、220年に皇帝の位を譲らせて帝位につき、都を洛陽とした。

蜀漢 孫呉 曹魏 三国時代(中国) 楽浪郡 3世紀の東アジア地図 3世紀の東アジア
3世紀の東アジア地図 ©世界の歴史まっぷ

3世紀の東アジア(三国時代) – 世界の歴史まっぷDL

蜀の建国

蜀を建国した劉備は、漢の帝室の子孫を称し、はじめ中原ちゅうげんの各地を転戦したが、諸葛亮しょかつりょう諸葛孔明しょかつこうめい 181〜234)を迎えて補佐とし、やがて蜀(四川)、湖北を領有し、221年に成都を都として皇帝の位についた(国号は漢・蜀は通称)。

呉の建国

呉を建国した孫権は、長江下流域に拠っていた豪族で、父や兄の跡をついでこの地帯一帯に強固な基盤をきずいた。魏・蜀についで222年に独立し、兼業けんぎょう(現南京市)に都をおき、華中、華南の開発を行った。

こうして魏・・呉の3国が中国を三分することになった(三国時代)。

晋(西晋)の建国

3国のうちもっとも優勢であったのは、華北の大半を支配した魏であった。魏は、後漢末から遼東地方(中国の東北地方)に自立していた公孫氏の政権を倒し、高句麗を討ち、朝鮮の楽浪・帯方の2郡も抑えて領域に加え(邪馬台国の女王卑弥呼が、帯方郡に使者を派遣し魏に朝貢したのは、この翌年(239)のこととされる。)、やがて蜀も滅ぼした(263)。

西晋 東アジア世界の形成と発展
西晋の領域 Source: Wikipedia

しかし、魏の帝室は曹丕(文帝)ののち、一族の間での争いからしだいに力を失い、かわって勢力を蓄えたのは司馬氏であった。蜀を滅ぼして2年後、魏の将軍司馬炎しばえんは皇帝の位について(武帝 位265〜290)晋(西晋 265〜316)を建国した。

司馬炎(武帝)は洛陽を都とし、280年には江南の呉を滅ぼして中国を統一した。武帝(西晋)は、権力の維持にあたって一族を各地に王として封じ、軍事権を与えるなど大きな権力をもたせて、帝室の守りにしようとしたが、かえって皇帝の権力を弱めることになった。

八王の乱

武帝(西晋)のあと恵帝(西晋)が即位すると、これらの諸侯は外戚の政権争いに乗じて皇帝の後継者をめぐる争いを始めた(八王の乱)。

武帝(西晋)の子の恵帝(西晋 位290〜306)のとき、皇后の氏とその一族が、汝南王・楚王を利用して実権を握った。それに対して、趙王がたって賈氏を滅ぼし、恵帝(西晋)を退位させたので、斉王・長沙王・成都王・河間王がこれを討ち、306年、東海王が懐帝(西晋)を擁立して実権を握った。これを八王の乱といい、このとき、諸王が北方諸民族の軍事力を利用したため、これらの諸民族は自己の力を自覚するようになった。

八王の乱
八王の封国分布図 @Wikipedia ©Public Domain

さらに官僚たちの間では、実際の役に立たない議論をたたかわせるばかりで国家の危機的状況をかえりみない風潮(清談せいだんの風)がおこった。八王の乱のなかで兵力として活躍したのは、中国内地に住みついていた北方や西方からの遊牧民であり、これらが勢力をのばして各地で自立をはかり、晋の支配をくつがえした。

永嘉の乱

八王の乱の過程で、自己の力を自覚した諸民族のうち、成都王のもとで活躍していた南匈奴の劉淵りゅうえんは、304年に自立し、308年(永嘉2)には山西の中南部で皇帝を称した(漢)。その子の劉聡りゅうそうのとき、洛陽を陥れて懐帝を捕虜にし(311)、316年には長安の愍帝びんてい(司馬炎の孫)を降して西晋を滅ぼした。
こうして華北は五胡十六国時代に入り、漢人豪族のひきいる流民集団は時にと呼ばれる城塞をつくって自営したり、江南に復興した東晋政府を頼って南に移住したりした。このような時代を背景に、東晋の詩人陶潜とうせん陶淵明とうえんめい)は「桃花源記」で、戦乱をさけ山中で自給自足の生活を送る集落を理想化して描いている。

東晋の建国

このため江南の軍司令官であった司馬氏の王族のひとり司馬睿しばえい(元帝 位317〜322)は、317年かつての呉の都であった建業(建康けんこうと改称)で皇帝の位につき(元帝(東晋))、晋を復興した。これを統一時代の晋(西晋)と区別して東晋(317〜420)という。
五胡十六国時代(4世紀)地図
五胡十六国時代(4世紀)地図 ©世界の歴史まっぷ