閻立本 唐 唐代の文化
職貢圖 (部分) (閻立本画/国立故宮博物院蔵) ©Public Domain

唐代の文化

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唐代の文化

唐代の文化は、北朝の剛健な文化と南朝の華麗な文化が融合され、そのおもな担い手は官僚化した貴族層であり、貴族的な色彩が強かった。また外国の文化が陸路・海路を経由して流入したために、著しく国際的な性格を形成した。こうした唐文化は東アジア全域に影響を与え、東アジア文化圏と呼ばれる広大な文化圏が形成された。

唐代の文化

唐(王朝)
東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

唐代の文化は、北朝の剛健な文化と南朝の華麗な文化が融合され、そのおもな担い手は官僚化した貴族層であり、貴族的な色彩が強かった。また外国の文化が陸路・海路を経由して流入したために、著しく国際的な性格を形成した。こうした唐(王朝)文化は、東アジア全域に影響を与え、東アジア文化圏と呼ばれる広大な文化圏が形成された。

宗教

儒学

分裂した晋南北朝時代のあとをうけて唐代になると、これまでおこなわれた諸解釈(訓詁学くんこがく)を整理統一しようという気運がおこった。太宗(唐)の指示をうけた孔頴達こうえいたつは、『五経正義ごきょうせいぎ』を編纂して公式の解釈を定め、この書は科挙のテキストとして尊重された。しかし、唐の科挙において経書の解釈はそれほど重視されず、また『五経正義』成立の結果、これ以外の解釈は認められないこととなったため、唐代の儒学は全般的に停滞した。
後半になると、経典の批判的・合理的解釈をめざす動きがあらわれ、従来の型にとらわれない文章を志向する 古文運動の興隆と密接に結びつきながら、自由な経書解釈による新しい儒教思想への胎動が始まった。

古文は、六朝時代に完成した対句表現を用いる四六駢儷体しろくべんれいたいに対し、質実な漢以前の文体をさす。

古文運動の指導者である文豪韓愈かんゆは『原道』『原性』を著し、宋学の先駆者として位置付けられる。

仏教

思想・宗教・文化の面で全盛をきわめたのは仏教である。隋代には、天台大師智顗ちぎが高度な教学を大成して、わが国の仏教にも大きな影響を与えた。唐代には、玄奘げんじょう義浄ぎじょうらはインドに赴き多数の経典をもち帰り、またインドや西域の僧侶も多数来朝した。
インド出身の金剛智こんごうち不空ふくうらにより密教が中国に伝えられ、急速に普及したことは、その一例である。

この最新伝来の仏教を不空の弟子恵果えかから学び、いち早く日本に紹介したのが空海くうかいである。

唐(王朝)前半には国家の保護のもとに精力的に仏典の翻訳(訳経)事業がおこなわれ、主要な諸宗派が確立した。しかし、唐後半になると、しだいに実践的色彩の強い禅宗浄土宗が仏教の中心的地位を占めるようになっていく。
唐代の寺院は、繁栄の陰で大土地所有や税役逃れをおこない、国家にとって財政上の問題ともなり、僧尼そうにには証明書(度牒どちょう)を発行して制限しようとした。しかしこれらの政策はうまくいかず、845年には武宗による大廃仏だいはいぶつが断行されている(会昌の廃仏かいしょうのはいぶつ)。

会昌の廃仏は、中国史上最大の仏教弾圧であり、この廃仏ののち復興した仏教では禅宗と浄土宗の優位が確定し、また外来宗教も弾圧されておこなわれなくなるなど、中国宗教史上の一大事件であった。当時中国に渡っていた日本僧円仁えんにんはこの事件をつぶさに目撃し、旅行記『入唐求法巡礼行記』に詳しく記している。
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三武一宗の法難

中国史上、前後4回にわたっておこなわれた仏教の弾圧事件を総称して、三武一宗の法難さんぶいっそうのほうなんと呼ぶ。「三武」とは、太武帝(北魏)・武帝(北周)・武宗(唐)であり、「一宗」とは五代後周の世宗のこと。こうした仏教弾圧事件の直接の原因はそれぞれ異なるものの、背景には寺院・僧尼の増加により、生産に従事しない者や税をおさめないものが増加し、教団の腐敗も目に余るという事情があった。また前3回の事件では、仏教と対立する道教側の策動が廃仏の大きな誘因となった。

道教

唐は、道教の祖ともいうべき老子が同じ李姓であることから道教を帝室の宗教として位置付け、厚い保護を与えた。
唐(王朝)皇室には不死を願い丹薬たんやく(水銀など危険な成分が含まれていることがあった)を愛好するものが多く、逆に寿命をちぢめた皇帝もいた。

外来宗教

唐(王朝)文化の国際性を示すものに、「唐代三夷教とうだいさんいきょう」と呼ばれる祆教けんきょう景教けいきょうマニ教イスラーム教の流入がある。祆教・景教・マニ教はいずれも西アジアのササン朝で信奉されていた。しかしササン朝の滅亡によって、新しい拠点を東方に求めねばならなかった。またイスラーム教は、ムスリム商人とともに伝わったものである。

祆教

ペルシアにおこったゾロアスター教のことで、火を儀式に用いることから拝火教とも呼ばれる。中国には北魏時代に伝来し、イラン系の人々を中心に信仰された。

景教

ネストリウス派キリスト教のことで、エフェソスの公会議(431)において異端とされたのち、シリア・ペルシアへと拠点を東に移しながら教会を維持し、積極的な布教活動を展開した。
中国へは635年に阿羅本あらほんが来朝して布教を開始した。唐では景教と呼ばれ、その寺院は、はじめ波斯はし寺と称し、のちに大秦寺だいしんじと改称された。波斯はペルシアのことであり、大秦はローマのことである。781年には景教の流伝を記念した大秦景教流行中国碑だいしんけいきょうりゅうこうちゅうごくひがたてられた。

マニ教

ササン朝において、マニ(216〜276)がゾロアスター教をもとに、キリスト教・仏教などの諸要素を融合させて創始した宗教である。則天武后のころに伝来し、漢訳経典もつくられ、マニ教を信奉するウイグルとの友好関係を維持する目的もあって、唐では保護政策をとった。

イスラーム教

アラビアのムスリム商人(唐では大食ダージーと呼ばれた)によってもたらされ、広州などにはイスラーム寺院(モスク, 清真寺)も建立された。唐代にはイスラーム教は清真教と称されたが、のちにウイグル(回紇かいこつ)の後裔を含む西域諸民族がイスラーム教に改宗したことから、回教(回回教)とも称されるようになった。

文学

唐(王朝)時代は、唐詩と称されるようにさかんに詩がつくられ、すぐれた作品が多く残されている。科挙でも詩文の才は非常に重要視された。

初唐(7世紀)
初唐(7世紀)は、六朝時代の余風をうけて優雅な作品が尊重された。
文章では、六朝時代同様に四六駢儷体しろくべんれいたいが尊重されたが、しだいに形式にとらわれない自由な文体もみられるようになった。

盛唐(8世紀後半まで)
盛唐(8世紀後半まで)は、唐(王朝)全盛期である玄宗時代を中心とする。
この時代には「詩仙」「詩聖」と称される李白りはく杜甫とほを頂点として、王維おうい孟浩然もうこうねん岑参しんしんなどの大詩人が現れて唐詩の全盛期となった。

中唐(8世紀後半〜9世紀前半)
中唐(8世紀後半〜9世紀前半)は、盛唐のあとをうけて個性豊かな独自の詩風の作品が生み出された。代表的詩人としては、韓愈かんゆ柳宗元りゅうそうげん白居易はくきょいや、怪奇・幻想的な詩風から「鬼才」と称された李賀りがなどが知られている。このうち韓愈・柳宗元は、四六駢儷体しろくべんれいたいを廃して古文に復帰することを主張し、いわゆる唐宋八大家とうそうはちたいか(唐・宋代に活躍した大文章家)にもあげられる。

晩唐ばんとう(9世紀中ごろ以降)
晩唐は、耽美的だんびてき・退廃的な詩風で知られるが、この時期にも杜牧とぼく李商隠りしょういんなど、著名な詩人が輩出している。

なお、唐代には伝奇でんきと称される短編小説も流行したが、その主たる担い手は官僚貴族層であった。

六朝時代から志怪しかい小説と呼ばれる素朴な神仙譚しんせんたんや階段の類は存在したが、唐代になると意識的にフィクションとして構成され、文学的に洗練された作品が生みだされた。これを伝奇と呼び、平安時代の日本文学にも大きな影響を与え、近代においても、芥川龍之介の『杜子春とししゅん』や中島敦の『山月記』などは唐代の伝奇に題材をとっている。
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李白と杜甫

李白・杜甫はいずれも安史の乱を挟む玄宗朝の繁栄とその後の混乱期に生きた詩人である。この激動期が詩を中心とする唐代文学の絶頂期である。李白は「詩仙」と称される。酒好きで放浪をくりかえした生活そのままに、詩風も自由奔放で豪快なものが多い。一方、杜甫は、「詩聖」と称される。科挙の試験にうからず苦労しながら詩作に励んだ彼の詩風には、誠実と苦悩が滲み出ている。安史の乱により焼土と化した長安を「国敗れて山河あり」とうたった「春望しゅんぼう」は名詩として名高い。

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史学

唐初は魏晋南北朝という分裂・混乱時代のあとを受けて、活発な史書編纂事業がおこなわれた。また史書編纂のための機関である史館の制度も整備され、正史編纂の基礎となる実録作成の手順なども決められた。こうした史学の隆盛を背景に、史官であった劉知機りゅうちきは、最初の本格的な史論書である『史通』を著した。

正史編纂:正史は、それを編纂した王朝の正当性を主張するためにも重要なものであった。南北朝の混乱の後をうけて唐の初めに『晋書』『梁書』『陳書』『北斉書』『周書』『南史』『北史』『隋書』などが王朝の事業として編纂された。
実録:実録は、紀伝体の史書である正史に材料を提供するものである。皇帝ごとに編年体(年月日を追って記される形式)で記される。

書道

唐では書芸が尊重され、科挙にも明書(明字)科がおかれ、さらに官僚の選考基準にも「書」の審査があり、筆跡が重んじられた。唐初は六朝時代の王羲之おうぎしの書風が尊ばれ、これを伝える欧陽詢おうようじゅん虞世南ぐせいなんは、太宗(唐)に招かれて貴族の子弟に楷法を教授した。この2人に褚遂良ちょすいりょうを加えて初唐の三大家と呼ぶ。

唐(王朝)中期ころになると、旧来の貴族社会はしだいに行き詰まりをみせ、これまでの典雅な楷書にかわって自由な書体が追求された。顔真卿がんしんけいは王羲之の書を習得した上で、力強い筆画に隷書れいしょの筆法を取り入れ、革新的な書風を生み出した。その書風は、力強さの中に穏やかな美しさをこめた独特の楷書であリ、五代や宋以後の新しい書を生み出す原動力となった。

顔真卿:顔真卿は安史の乱中、義勇軍を率いて反乱軍に抵抗し、その後、藩鎮の反乱の中で節を貫いて死ぬなど、剛直の生涯によっても知られている。

絵画

唐初の閻立本えんりっぽんは、人物画の名手として知られる。玄宗期には仏画で知られる道玄ごどうげんや細密華麗な山水画を描いた李思訓りしくんがおり、詩人としても有名な王維おういは、「詩中に画あり、画中に詩あり」と称され、山水画にすぐれていた。後世、中国の絵画史では、李思訓を北宗画ほくしゅうがの祖とし、王維を南宗画の祖としている。

一般的に南宗画(南画)は知識人層が素人画家を標榜ひょうぼうし、自由で詩情豊かな山水画を描いた。北宋画(北画)は、宮廷などの専門の職業画家(宮廷画家)が描いたもので、濃彩を重んじ技巧の点に優れていた。
*王維画の真蹟は現存せず、彼を水墨山水の祖とするのは後世の誤りだとする説もある。
閻立本 唐
職貢圖 (部分) (閻立本画/国立故宮博物院蔵) ©Public Domain

一覧表

唐代の文化

特色貴族的色彩の強い文化、北朝以来の遊牧文化とともに外国文化の流入により国際的な性格を形成
→東アジア全域に影響を与え、東アジア文化圏を形成
儒学訓詁学孔穎達『五経正義』:五経の公式解釈→科挙のテキストとして尊重。
しかしこれ以外の解釈は認められず、唐代の儒学は停滞。
宗教仏教唐代前期には、国家の保護により諸宗派が確率。後半になると、実践的な禅宗や浄土宗が仏教の中心的地位を占める
書宗派:天台宗・法相宗・律宗・華厳宗・浄土宗・禅宗・真言宗
渡印僧:玄奘『大唐西域記』、義浄『大唐西域記』
会昌の廃仏(845):武宗による廃仏、こののち禅宗と浄土宗の優位が確立
道教宮廷の厚い保護をうける
祆教北魏時代に伝来(ゾロアスター教)。拝火教とも呼ぶ。
景教635年阿羅本が来朝して布教(ネストリウス派キリスト教)。
638年長安に大秦寺を建立。781年「大秦景教流行中国碑」建立。
マニ教ゾロアスター教・キリスト教・仏教の要素を融合。
則天武后の時代に伝来。唐は保護政策をとった。
イスラーム高宗(唐)の時代に海路伝来(清真教)。
広州などにはイスラーム寺院(清真寺)が建立。
文学唐詩盛唐:李白・杜甫・孟浩然・王維
中唐:白居易
晩唐:杜牧・李商隠
散文韓愈・柳宗元:四六駢儷体を廃し、漢代の文体(古文)に復帰することを主張
伝奇短編小説。平安時代の日本文学に影響
歴史劉知機『史通』、房玄齢ら『晋書』
欧陽詢・虞世南・顔真卿
絵画閻立本(人物画)、呉道玄(仏画)、李思訓・王維(山水画)
工芸唐三彩
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