クリミア戦争 新たな国際関係の展開
クリミア戦争 1853年11月シノープの海戦(イヴァン・アイヴァゾフスキー画/Central Naval Museum蔵/WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

新たな国際関係の展開

クリミア戦争でロシアがオスマン帝国に開戦。ロシアの南下政策に警戒心をもつイギリスとオーストリア、威光拡大をめざすナポレオン3世がロシアと対峙。ロシアとオーストリア両国を軸に展開した国際反動体制が崩壊した。

新たな国際関係の展開

19世紀後半に入ると、新たな国際関係が展開された。その端緒は東方問題と関連するクリミア戦争(1853〜56)であった。この戦争でロシアが聖地管理権問題などの要因によってオスマン帝国に開戦したのに対して、ロシアの南下政策に警戒心をもつイギリスと威光拡大をめざすナポレオン3世が共同してロシアと対峙した。ロシアは苦境に陥り、ウィーン体制確立以来盟友関係にあったオーストリアに支援を期待した。しかし、メッテルニヒ失脚のあとのオーストリアは、ロシアとの友好よりも自国の利害を優先する政治を進めていた。すなわち、バルカン半島進出を視野に入れたオーストリアはロシアの南下政策に対して警戒心をもち、クリミア戦争では中立を決めこみ、軍隊をロシアとの国境に集結させて牽制し、講和をしなければロシアを敵として参戦すると威嚇した。孤立したロシアはオーストリアの離反に反発し、ロシアとオーストリア両国を軸に展開した国際反動体制が崩壊した。

聖地エルサレムの管理権は、16世紀以来ローマ教皇の保護者であったフランスが掌握していたが、フランス革命による混乱の際、ギリシア正教徒がロシアの指示をうけ管理権を獲得した。ナポレオン3世はオスマン帝国に圧力を加え、オスマン帝国がこの要求を認めたことが戦争の発端となった。

この両国の対立の激化は、ドイツ統一をめざすプロイセンにとって、またナポレオン3世との緊密な関係を形成し、戦争参加によって国際的な認知をはかったサルデーニャ王国にとって有利な情勢を生みだした。

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