明初の政治 明朝の建国によって、中国は約240年ぶりに漢族の統一国家として復活した。洪武帝は、そうした民衆の民族意識を利用しながら、支配体制の確立と国土の再建に努めた。 中書省とその長官廃止、六部・五軍都督府・都察院をを皇帝直属とする、里甲制導入、賦役黄冊・魚鱗図冊作成、六諭の交付、衛所制、明律・明令を制定、海禁政策
明初の政治
明朝の建国によって、中国は約240年ぶりに漢族の統一国家として復活した。洪武帝は、そうした民衆の民族意識を利用しながら、支配体制の確立と国土の再建に努めた。
洪武帝は、君主独裁による中央集権体制を目指し、さまざまな改革を実行した。まず中央政府では皇帝権の強化をはかるため、政治の最高機関である中書省とその長官(丞相)を廃止し、そのもとに設置されていた実務機関である六部(吏・戸・礼・兵・刑・工 律令体制)を皇帝の直属とし、全てを皇帝が決定する体制をとった。また廃止された長官にかわり殿閣大学士を置いて政治顧問とした。さらに軍事を統括する五軍都督府や監察期間の都察院をおき、いずれも皇帝直属として、それぞれの権限を分立させた。こうした三権分立的体制は、地方行政に対してもおこなわれた。すなわち地方の各省には布政使(行政)・都指揮使(軍事)・按察使(監察)があって皇帝に直属し、そのもとに府・州・県を置いた。このようにして洪武帝は、中央・地方を直接支配する皇帝独裁権を強化していった。
一方、洪武帝は民衆に対して、国家の財政基盤を確保する必要から、全国規模の人口調査を実施し、それにもとづき村落を県の末端行政組織とするための里甲制を導入した。さらに農民と土地を把握して租税を徴収するために、租税台帳である賦役黄冊や土地台帳の魚鱗図冊を作成させ、里甲をつうじて税を徴収した。また里内の人望ある長老を「里老人」とし、彼をとおして儒教主義による民衆教化を行うため、6ヶ条からなる教訓(六諭)を交付して民衆の教化に努めた。
軍事面では、軍人は軍戸として一般の民間人(民戸)とは戸籍を別にし、兵役の負担があった。
明では唐代の府兵制にならった衛所制をおこなった。衛所制は、軍戸ごとに徴発された正丁(成人)112人をもって百戸所を構成し、10の百戸を千戸所、5つの千戸所(5600人)を1衛とし、それぞれの省の都指揮使に属し、府・州・県に配置された。また、衛所内には屯田をおいて、自給自足の兵農一致をはかった。これらの軍戸は世襲であった。
里甲制
里甲制は、明を立てた朱元璋が実施した、村落の自治組織。110戸を1里とし、その中で経済的にも裕福な富戸10戸を選んで里長戸とし、残りの100戸をさらに10の甲(1甲10戸)に分け、各甲の中から甲首戸1名を置いた。里長戸と甲首戸は毎年輪番で選ばれる仕組みになっており(10年で一巡)、里甲内部の徴税や治安維持に当たった。賦役黄冊と魚鱗図冊
賦役黄冊は、里甲制を実施するにあたり作成された戸籍簿であると同時に、租税を徴収するための基本台帳も兼ねた。10年ごとに各里の里長、甲首が作成し、州・県・府・布政使をへて戸部に提出された。黄冊とは、黄色の紙を使用したためにそう呼ばれる。 魚鱗図冊は、宋代以降、一部の地域で作成されていた土地台帳で、明初になって各地で作成された。一区画ごとに土地の所有者や税の負担が記入されているが、その形が魚の鱗に似ていることから、この名がつけられた。
六諭:六諭は、洪武帝が1397年に定めた、「父母に孝順なれ、長上を尊敬せよ、郷里に和睦せよ、子孫を教訓せよ、おのおの生理(職業)に安んぜよ、非為をなすなかれ」の6カ条の教訓。これを里ごとに、毎月6回、里老人が巡回し唱えた。日本の明治時代に制定された「教育勅語」は、これを参考としていると言われる。