東南アジア植民地化の特色
- 少数のヨーロッパ人(官吏・軍人・資本家など)が大多数の先住民を搾取する植民地社会
- ヨーロッパ人と先住民との中間に中国人(華僑)・インド人など外来のアジア人からなる社会層が存在(複合社会)
東南アジア植民地化の特色
16世紀初めから香辛料を求めて東南アジア海域に来航したヨーロッパ人は、初め海港に設けた商館を拠点とする貿易活動に従事していたが、やがてより多くの産物を入手しその貿易を独占するため先住民の支配をめざすようになった。19世紀に入り本国における産業革命が進むと、原料供給地と製品市場の必要が増し、各国はきそって領土獲得と植民地経営に乗りだした。そこに出現したのは、支配者であるごく少数のヨーロッパ人(官吏・軍人・資本家など)が大多数の先住民を搾取する植民地社会であった。東南アジアの植民地にみられるもうひとつの特色は、ヨーロッパ人と先住民との中間に中国人(華僑)・インド人などの外来のアジア人からなる社会層が存在することである(複合社会)。
彼らは錫鉱山の労働者や輸出作物のプランテーション労働者として、また小売業・仲介業・金貸しといった商業活動の担い手として移住してきた者たちであるが、そのなかから、やがて経済力を蓄えるものも現れた。とくに華僑と総称される中国人の活動はめざましかった ❶ 。一方、先住民は、コーヒー・砂糖・茶・ゴムなどの輸出用の作物の栽培をつうじて変動の大きな世界経済と直接結びつけられ、不安定な生活に追いやられた。
伝統的な農村社会がこのようにしてくずされたのに対し、植民地経営の中心としての都市は経済的に発展をとげ、農村からの人口流入もあり膨張した。また植民地経営にともないヨーロッパの技術や思想が伝えられ、都市を中心にいわゆる近代化も進み、ヨーロッパ的教養を身につけた知識人階層もしだいに形成された。初期の民族運動をになったのは彼らである。
一方、ヨーロッパ諸国では、植民地支配を安定させるため旧支配者の一部を温存するという先住民分断策を採用した。イギリスがインド支配にあたって藩王国を残したのと同じ政策である。