清の衰退 18世紀後半になると、各地で抗租・抗糧と呼ばれる経済闘争、白蓮教と総称される秘密宗教結社の反乱が続発し、戦乱による荒廃と反乱平定に要した巨額の出費は、清の国力を大きく消耗させた。
清の衰退


清代の人口の変化 清代中期の爆発的人口増加は太平の持続と穀物増産の進展によるほか、地丁銀制施行により人頭課税が廃止されたことも影響している。人口増加は耕地不足を招いて流民や移民の数も増加させ、華北漢人の華南移住(客家)や、東南アジアなどへの国外移住(いわゆる華僑)などが進展していった。
このため、乾隆帝の治世も後半になると、各地で民衆の反乱や抵抗運動が続発するようになったが、これらの反乱・抵抗運動には、抗租・抗糧 ❶ と呼ばれる経済闘争のほか、秘密宗教結社に率いられたものが多かった。元末以来、明・清と根強い活動を続けてきたこれらの秘密宗教結社は、一般に白蓮教と総称されるが、1774年に山東省でおきた清水教の乱は、この時期における白蓮教の反乱の皮切りとなり、1796年に始まった白蓮教徒の乱(嘉慶白蓮教の乱, 1796〜1804)は、湖北・四川省を中心に10年に及ぶ大乱となった。清朝はこの反乱の平定に苦しみ、清朝正規軍(八旗・緑営)の腐敗と弱体化が露呈され、反乱の平定には、むしろ地方官や地主層によって組織された地方自衛軍(郷勇)の活躍によるところが大きかった。また、戦乱による荒廃と反乱平定に要した巨額の出費は、清の国力を大きく消耗させた。その後も白蓮教結社の地下活動はやまず、1813年には教徒が不意をついて北京の宮城内に乱入するという天理教との乱がおきている。またこの時代には、「反清復明」を唱える民間の政治的秘密結社の活動も活発になった。こうした政治的秘密結社を会党といい、天地会・哥老会などが代表的なものであった。❶ 抗租は佃戸の地主に対する小作料の減免闘争をさし、抗糧は土地所有農民の国家に対する納税忌避闘争をさす。