王政復古から名誉革命へ
チャールズ2世の帰還(Hendrick de Meijer画/アムステルダム国立美術館蔵)©Public Domain

王政復古から名誉革命へ ピューリタン革命で共和制の護国卿となったクロムウェルの独裁政治に対する国民の不満を利用した王党派は、クロムウェルが没すると、その息子がさらに不評であるのに乗じて、1660年、長老派と組んで、フランスに亡命していた前王の子チャールズ2世を呼びもどした(王政復古)。 議会は次のジェームズ2世(イングランド王)をフランスに追放し、かわってメアリー2世とその夫でオランダの総督ウィリアム3世を共同統治の王として迎えた。「権利章典」を発布し、国王の権利が大幅に制約され、議会が主権を握る立憲王政が確立、絶対王政は消滅した。

王政復古から名誉革命へ

オリバー・クロムウェルの独裁に対する国民の不満を利用した王党派は、クロムウェルが没すると、その息子がさらに不評であるのに乗じて、1660年、長老派と組んで、フランスに亡命していた前王の子チャールズ2世(位1660〜1685)を呼びもどした。チャールズ2世(イングランド王)は、「ブレダ宣言」によって、大半の革命関係者の責任を問わず、革命で没収された王党派の土地財産の処理については議会の決定に従うこと、信仰の自由をある程度容認することなど、議会との和解の姿勢を示し、ステュアート朝を復活した。 議会派革命の成果を生かし、国教主義を中心に政治を進めようとしたが、国王はフランスとつうじてカトリックの信仰と絶対王政の復活をはかった。このため議会は、非国教徒が公職につくことを禁じた審査法(テスト・アクト 1673)や、不法な逮捕・投獄を禁じた人身保護法(1679)を制定して対抗した。こうした過程で、王権に寛容なトーリ派と、どちらかといえば批判的なホイッグ派(ウィッグ派)の2つの党派がしだいに確立し、のちの二大政党制の基礎がきずかれた。
航海法・人身保護法・糖蜜法など、このころのイギリスの法律はかつて「条例」「律」「令」などと訳されたこともあるが、近年は「法」に統一する傾向にある。
しかし、次のジェームズ2世(イングランド王)(位1685〜1688)の政治も専制的であり、カトリックの復活を意図しているような疑惑もあったため、1688年、議会は一致してジェームズ2世をフランスに追放し、かわってメアリー2世(イングランド女王)(位1689〜1694)とその夫でオランダの総督ウィリアム3世(イングランド王)(位1689〜1702)を共同統治の王として迎えた。両王は議会が提出した「権利の宣言」を承認し、「権利章典」として発布した。これによって、国王の権利が大幅に制約され、議会が主権を握る立憲王政が確立、絶対王政は消滅した。この革命を名誉革命という。この革命によって確立した体制は、以後、1世紀以上にわたってイギリスの社会や政治のあり方を決めることになる。さきのピューリタン革命と合わせて、「イギリス革命(市民革命)」と呼ぶこともある。

権利の章典(1689年)

1. 王は、その権限によって、議会の同意なしに、法の効力を停止したり、法の施行を停止したりする権力があるという主張は、違法である。 4. 国王大権を口実として、議会の承認なしに、議会が承認するよりも長期間にわたり、また議会が承認するのと異なる方法で、王の使用のために金銭を徴収することは、違法である。 6. 議会の同意しない限り、平時に王国内で常備軍を徴収し維持することは、法に反する。 8. 国会議員の選挙は自由でなければならない。 9. 議会での言論の自由や討論や議事手続は、議会以外のいかなる裁判所や場所でも弾劾されたり問題とされてはならない。 13. また、すべての苦情を除き、法を修正・強化・保持するため、議会はしばしば開かれなければならない。

市民革命

「市民革命」とは、封建国家から、資本主義の発展を全面的に促進する近代国家への転換を決定的にした政治体制の変革をいう。つまり、絶対王政のもとで力を蓄えたブルジョワジーが、みずから政権を握った出来事である。封建制度にもとづく土地所有のありかたが廃止され、私有財産制度が確立すること、農奴制度が廃止されることなどを目印とする。 しかし、実際にどの事件がそれにあたるかについては、いろいろな意見がある。イギリスのこの2つの革命、フランス革命、アメリカ独立革命、ドイツの三月革命、ロシアの第1次革命(1905)などが、それにあたると考えられてきたが、日本については、明治維新がそれにあたるかどうかをめぐって、戦前から大論争が展開されてきた。
スコットランドでは、1536年にイングランドに併合されたウェールズや、アイルランドとならぶケルト人の国であったが、1707年にいたってイングランドに併合され、イギリスは大ブリテン王国となった。この併合によって、スコットランドは政治的独立を失ったが、ケルト文化の伝統はその後も一貫して残っている。経済的にはイギリス重商主義政策によって抑圧もされたが、イングランドとその植民地を市場とすることができた一面もあった。とくにグラスゴーなどでは、かなりの経済発展がみられ、のちにイギリス産業革命のひとつの中心となる。 1714年にアン(イギリス女王)(位1702〜1714)が死去し、ステュアート朝が絶えると、ドイツのハノーヴァー選帝侯がジョージ1世(イギリス王)(位1714〜1727)として迎えられ、ハノーヴァー朝(1714〜1917)が成立した(この王朝は、のちにイギリス風にウィンザー朝と名称を変え、現在にいたっている)。40歳をすぎてイギリスにきた王は英語が話せなかったこともあり、国王は「君臨すれども統治せず」という原則が確立した。ホイッグ党のロバート・ウォルポール首相(任1721〜1742)のもとで、内閣が議会に責任を負う責任内閣制が成立したのである。
ブリテン諸島の地図
ブリテン諸島の地図 ©世界の歴史まっぷ
名誉革命後、とくに18世紀前半のイギリスでは、大地主や大貿易商を背景とするホイッグ党の優位が続き、帝国の拡大をめざす重商主義政策を展開した。このためフランスとの関係は悪化し、革命直後から早くも対仏戦争(アウクスブルク同盟戦争 九年戦争)に巻きこまれ、さらにスペイン継承戦争が続く。ウィリアム3世(イングランド王)はまた、フランスとつうじる可能性のあるアイルランドに遠征軍を派遣し、ほぼ完全に同地を植民地化してしまった。

南海泡沫事件

重商主義政策の展開を背景に、18世紀の初めのイギリスでは、スペイン領のラテンアメリカへの奴隷などの供給を請けおった南海会社の株を中心に、無数の株式会社が成立した。しかもそれらの株は、いずれも急騰して激しい株式ブームがおこった。 しかし、1720年にいたって、株価はいっきょに暴落し、南海会社と政治家の癒着も明らかになって、イギリス社会をゆるがす大事件となった。これを「南海泡沫事件なんかいほうまつじけん(サウスシー・バブル)」という。これに懲りた議会は、「泡沫禁止法(バブル・アクト)」を通過させ、東インド会社やイングランド銀行(1694年設立)などの例外をのぞく、いっさいの株式会社を禁止した。この事件は、投機事件としては、球根への投機熱がこうじたオランダの「チューリップ恐慌」などとならぶ、深刻なものであった。この事件は、今日いう「バブル」の語源となった。