社会主義思想の成立
- 空想的社会主義:人道的立場から改革を求める。
- 無政府主義:国家・政府の権力を否定。個人の完全な自由をめざす。議会主義否定。労働者の直接行動を重視。
- 科学的社会主義(共産主義):唯物史観に基づき、資本主義社会を科学的に分析。階級闘争による社会の発展を主張。
社会主義思想の成立
社会主義思想の成立表
空想的社会主義 | 人道的立場から改革を求める。 | ||
英 | ロバート=オーウェン | スコットランドのニューラナーク工場経営 1833年工場法に影響を与える |
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仏 | サン=シモン | アメリカ独立革命に参加 合理的産業社会を追求 |
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仏 | フーリエ | 協同組合的理想社会を追求 | |
仏 | ルイ=ブラン | 第二共和政の臨時政府で活躍 国立作業場やリュクサンブール委員会設置 |
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無政府主義 (アナーキズム) | 国家・政府の権力を否定。個人の完全な自由をめざす。議会主義否定。労働者の直接行動を重視。 | ||
仏 | ブルードン | 労働に基づかない私有財産を否定 社会問題解決を相互扶助に求める |
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露 | バクーニン | フランスの二月革命に参加 サンディカリズムに影響 |
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露 | クロポトキン | ||
科学的社会主義 (共産主義) | 唯物史観に基づき、資本主義社会を科学的に分析。階級闘争による社会の発展を主張 | ||
独 | マルクス | 唯物史観と唯物弁証法大成 エンゲルスとともに『共産党宣言』を発表 |
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独 | エンゲルス |
労働運動とともに、19世紀になると生産手段の社会化をめざす社会主義思想が生まれた。
イギリスのロバート=オーウェン Robert Owen (1771〜1858)は丁稚奉公から始め、織物業者として成功し財を成した。人道主義の立場でスコットランドのニューラナーク New Lanark に工場をたて、10時間労働や清潔なアパートの建設、世界最初の幼稚園の運営などをとおして、利潤追求ではなく、環境の改善による人間性の増進をはかった。
さらに工場法の制定(1819)、労働組合や協同組合の育成をはかり、1825〜28年にかけてアメリカでニューハーモニー村を建設して、理想社会の実現に努めたが失敗に終わった。1834年労働組合大連合を結成したがこれも失敗し、その後引退した。晩年は新道徳による精神革命を志向するなど社会主義者としての面目とはことなる生活を送ることになった。
工場法
工場法は何回も制定されている。世界最初の工場法は年少徒弟の労働時間を12時間に制限した1802年のもので、ついで1819年オーウェンの努力により紡績工場法が制定され、9歳以下の少年の雇用の禁止と9〜16歳の労働時間が12時間に制限された。33年には一般工場法が制定され、9〜13歳の9時間労働、18歳以下の12時間労働が規定され、工場監督官の設置が決められた。44年の工場法は8〜13歳の6時間半、女性の12時間労働が、47年のそれでは女性・児童の10時間労働が定められた。
フランスでは労働者による理想的産業社会の建設をめざしたサン=シモン Saint-Simon (1760〜1825)、生産と消費の協同組合的理想社会の実現をめざしたフーリエ Fourier (1772〜1837)らが活動する。
一方で、少数の革命家が指導し暴力による権力奪取をめざしたブランキ Blanqui (1805〜81)、国家権力の否定によって自由な社会の実現をめざすプルードン Proudhon (1809〜65)らの無政府主義運動がおこった。ルイ=ブラン Louis Blanc (1811〜82)は二月革命の際には臨時政府に参加し、リュクサンブール委員会(労働委員会)の委員長として生産の国家統制をはかるために国立作業場を設立したが、失敗に終わった。
ドイツではカール=マルクス Karl Marx (1818〜83)がでて、イギリスの人道主義的立場の社会主義やフランスの協同組合的または無政府主義的立場とはことなる、社会主義理論を展開した。
当時の社会主義と一線を画すために共産主義と称し、ヘーゲルの弁証法を継承しつつ、唯物史観を大成し、厳密な資本主義経済の分析による社会主義社会への必然的移行を主張した。『資本論』などで資本主義社会における搾取の根源を剰余価値に求め、資本主義生産の仕組みを解明し、社会主義を科学としての水準まで高めた(科学的社会主義)。マルクス主義の要旨は、終生の友人であり協力者であったエンゲルス Engels (1820〜95)との共同による『共産党宣言』(1848年1月発表)に集約されている。
マルクスの妻・イェンニー
マルクスの妻は、姉の友人で、彼より4歳年上のイェンニーという女性であった。貴族の出身で、トリールの街で「第1の美人」と呼ばれていた。結婚後、ロンドンに亡命したマルクスは極端な貧乏生活を送った。「1週間前から質屋に入れてある上着がないために外出もしないし、掛け買いがきかないためにもやは肉も食えない」(1852年2月)とマルクスがエンゲルスに手紙を送っており、家賃がたまっては借家から追い出され、2間に一家5人が住み、子どもは大きくなりかけては死に、また生まれては死んだ。オムツを買う金もなく棺おけを買う金もなかった。イェンニーはこの極貧の生活によく耐え、マルクスの研究生活を献身的に支えた。