立憲議会の成立と戦争の開始
9月虐殺(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

立憲議会の成立と戦争の開始

古代末期から中世初期にかけてヴァンダル人がイタリアに侵入し、都市を略奪・破壊をおこなったことから、野蛮な文化破壊をヴァンダリズムと呼ぶ。革命は、新しい文化を創造もするが、古い価値の否定とともに、伝統的な文化を破壊する。革命の激化にともなって、民衆は反王権、反教会の情熱に動かされ、国王や王一族の像・墓・肖像、貴族の城館がしばしば破壊の対象に選ばれた。

立憲議会の成立と戦争の開始

戦争と共和制図
戦争と共和制図 ©世界の歴史まっぷ

1791年10月、新憲法による選挙で一院制の立法議会 Assemblee Legislarive が成立した。立法議会では右翼に立憲君主派のフイヤン派 Feuillanrs が、左翼に共和政を主張するジャコバン派 Jacobins が陣どっていた。多数の中間派は情勢に左右された。フイヤン=クラブを背景とするフイヤン派はラ=ファイエットバルナーヴ Barnave (1761〜93)らが指導していた。ジャコバン修道院に本拠をおくジャコバン派には小市民を支持基盤とする左派と、中産市民層を代表する穏和派がいた。マラー Marat (1743〜93 ジャン=ポール・マラー)・ダントン Danton (1759〜94)・ロベスピエール Robespierre (1758〜94)らに指導される左派は議会の最左翼の高い所の議席を占めていたので、モンターニュ派 Monragnards (山岳党)と呼ばれた。穏和派はジロンド県出身議員が多く、のちジロンド派 Girondins としてジャコバン派から分離し、両者は対立するようになった。

フイヤン派:1791年、ジャコバン=クラブから分離した立憲君主派が、パリのフイヤン修道院に集まりつくったクラプのメンパー。ラ=ファイエットやバルナーヴらが所属していた。
ジロンド派:主として商工業ブルジョワジーを代表する党派。指導者にジロンド県選出の議員が多くいたことからこの名で呼ばれる。ブリッソ・コンドルセ・ヴェルニョなどが所属していた。

ヨーロッパ各国の君主は、フランスの亡命貴族(エミグレ emigre)からの働きかけもあり、フランス革命の進展に警戒心を強めた。1791年8月フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世(プロイセン王)オーストリア皇帝レオポルト2世(神聖ローマ皇帝)はドレスデン近くのピルニッツ Pillnirz で宣言をだし、フランスに対する行動の決意を告げた(ピルニッツ宣言)。立法譲会では、立憲君主派とジャコバン左派は戦争に慎重であったが、ジロンド派は革命を強化できると考えて開戦を主張し、まったく逆の立場で開戦を望む国王によって組閣をゆだねられた。国王の立場からすれば、戦争の勝利は王の威信を高めるであろうし、逆に諸外国の勝利となれば、革命の崩壊が期待できたのである。1792年4月、フランスはオーストリアに宣戦を布告した。プロイセンはオーストリアと結んだ。国内が混乱状態にあり、準備不足であったフランス軍は劣勢であった。ジロンド派内閣は罷免され、フイヤン派内閣が成立するが、プロイセン・オーストリア同盟軍は国境に迫っていた。

7月11日、立法議会は「祖国の危機」を宣言し、義勇兵を全国でつのった(祖国非常事態宣言)。フランス人のナショナリズムが高揚し、地方からパリに義勇兵がぞくぞくと結集した。

パリに入ったマルセイユ義勇軍が歌っていた「ライン進軍歌」が「ラ=マルセイエーズ」として、のちフランスの国家となった。

7月25日、プロイセン軍司令官ブラウンシュバイク公はコブレンツで宣言を発し、フランス国王に危害が加えられればパリ市を破壊する警告した。この宣言は王政の瓦解を早める結果となった。ジャコバン=クラブとパリの各地区の市民は国王の廃位を要求し、8月10日パリ民衆と義勇兵は、テュイルリー宮殿を攻撃し、宮殿を警護していたスイス衛兵は惨殺された。民衆の圧力に屈し、議会は王権を停止し、普通選挙による憲法制定議会すなわち国民公会の招集を布告した(8月10日事件)。ルイ16世タンプル宮に幽閉された。

この8月の蜂起のとき、民衆の活動家によりコミューンが組織された。パリの実権はコミューンが握った。

コミューン:市民の自治組織で、パリの48区からそれぞれ代表を選出しコミューン総会を構成した。1792年8月10日事件では、それまでの公式のコミューンにかわり、サンキュロットを主体とする革命的コミューンが成立し、合法性をこえた革命的行動で国民公会に圧力を加えた。山岳党の勢力は、コミューンの支持を基盤とした。

9月2日から6日にかけ、パリの民衆は市内の監獄に収容されている反革命容疑者とみなされた囚人を人民裁判により虐殺した。まったく政治に関係のない囚人を含めて、犠牲者は千数百人にのぼった。義勇軍が前線にむかったあと、背後の裏切り者が牢獄を破り、市民の虐殺をおこなうという噂に対しておこされた民衆行動であった。「9月虐殺」はコミューンが指導したものであるが、この行為の正当化と責任をめぐって、この後さまざまな論議がおこなわれた。

前線ではフランスの革命軍は9月20日、ヴァルミー Valmy で敵の侵入軍を撃退しライン川左岸やネーデルラントを占領した(ヴァルミーの戦い)。革命軍は最初の軍事的勝利をえて逆襲に転じることができた。

革命のヴァンダリズム

古代末期から中世初期にかけてヴァンダル人がイタリアに侵入し、都市を略奪・破壊をおこなったことから、野蛮な文化破壊をヴァンダリズムと呼ぶ。革命は、新しい文化を創造もするが、古い価値の否定とともに、伝統的な文化を破壊することも多い。革命の激化にともなって、民衆は反王権、反教会の情熱に動かされた。国王や王一族の像・墓・肖像、貴族の城館がしばしば破壊の対象に選ばれた。パスティーユは、革命前から取りこわしが提案されていたが、まず革命で真先に破壊された。大恐怖では各地で貴族の城館が襲撃され、取りこわされた。カンブレの大聖堂アラスの大聖堂などの教会が破壊された。有名なクリュニー修道院は1791年略奪にあい、1793年に破壊された。ストラスプールではルイ14世とルイ15世の肖像画が火刑台でもやされた。「サン=ドニ教会堂の屋根ははがされ、窓は破れていた。草の繁った外陣には雨がしみこんでおり墳墓はなかった」と1800年にシャトープリアンは書いている。1802年にパリにむかったあるイギリスの旅行者は、朽ちかけた城館について、革命派が「エレガンスとか洗練さが少しでもみられたものは何一つ容赦しなかったのである。技芸や奢侈しゃしを示す古い建物には、その持ち主の所有権もろとも、見境なしに襲い掛かったようだ」と報告している。

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