第一共和制の成立と内外の危機
ルイ16世の処刑(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

第一共和制の成立と内外の危機 国民公会での国王の裁判は、モンターニュ派の提案した国王の死刑が可決。1793年1月、革命広場(のちのコンコルド広場)でルイ16世は処刑された。ヨーロッパ諸国は革命への敵意と警戒心を強め、イギリスのピット首相の呼びかけで、1793年、イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどによる第1回対仏大同盟が結成された。

第一共和制の成立と内外の危機

戦争と共和制図
戦争と共和制図 ©世界の歴史まっぷ
1792年8月末から9月初めに普通選挙により議員が選ばれ、国民公会 ConvemionNarionale が成立した。国民公会は王政廃止と共和政(第一共和政)の樹立を宣言した。立憲君主派は姿を消し、共和派のみとなった国民公会では議場の右のジロンド派と議場の左のモンターニュ派(山岳党)が敵対した。ジャコバン=クラブはモンターニュ派が支配していた。 穏健な中間グループは平原派 Plaine と呼ばれ、両派の間を揺れうごき情勢を左右した。国民公会で国王の裁判が始められた。国王は公的自由に対する陰謀と国家の安全の侵犯により、数名の棄権をのぞき満場一致で有罪とされた。モンターニュ派の提案した国王の死刑は可決され、ジロンドが提案した死刑執行延期は否決された。1793年1月、革命広場(のちのコンコルド広場)でギロチンによるルイ16世の処刑がおこなわれた。 革命軍の攻勢とルイ16世(フランス王)の処刑は、イギリスをはじめとするヨーロッパ諸国の革命への敵意と警戒心を強めた。イギリスのピット首相(小ピット Pitt, 1759〜1806)の呼びかけで、1793年第1回対仏大同盟が結成された。イギリス・オーストリア・プロイセン・スペイン・オランダなどが参加した。国内ではヴァンデ県で王党派が指導する農民の反乱がおこり、インフレと買い占めと食糧難から民衆の不満が高まった。国民公会のモンターニュ派は、反革命を抑えるため革命防衛のための改革を進めた。革命裁判所・監視委員会・国民公会の委員で構成する公安委員会などが設置された。公安委員会は行政の活動の監視・促進をめざすものであったが、しだいにその権限を強めた。 ジロンド派はこのような措置に反対したが、モンターニュ派は1793年6月パリのサンキュロットの武装兵力に国民公会を包囲させ、ジロンド派議員を追放し、独裁権を握った。ジロンド派の議員や大臣の多くは逮捕され、処刑された。

一市民の日記にみる革命のパリ

パリで革命を体験した平凡な一市民セレスタン=ギタールは、日常生活とないまぜながら、革命期の首都のようすをその日記のなかでたんたんと書きつづっている。1792年8月10日の革命ののちおこなわれた、いわゆる9月虐殺に関する彼の日記の記述をのぞいてみよう。
9月3日月曜日 気温18度。南西の風、曇り セリエ夫婦、ストラフォレリ氏と昼食。エシャール氏に会い、一緒にカフェに行く。今日も引き続き、囚人の虐殺がおこなわれた。ド=ランバル元公爵夫人(王妃マリ=アントワネットの女官長)も殺された。民衆は切り落とされた公爵夫人の首を槍の先にさして、パリの街を引き回し、死体はドブに捨てた。革命を引きおこした張本人の共犯者であるという理由からだ。王妃の女官ド=トゥゼル夫人も同様に殺された。 パリと県の国民衛兵6万人が昨日から集結し、今日急遽、国境に向けて出発した。今日はビセトール監獄で虐殺が始まった。虐殺は生きている囚人が監獄内にひとりもいなくなるまで続けられた。昨日からどの区でも市民全員が兵役についた。市民たちは、各区で登録を済ませると、24時間後にはもう国境に出発するのだ。パリだけで3万人の男子を送らなければならない。

河盛好蔵訳