諸王国の抗争
グプタ朝の崩壊後、ハルシャ・ヴァルダナが分裂していた北インドを再び統一したがハルシャの死とともに崩壊した。以後デリーにイスラーム政権がたてられるまでの数世紀間、北インドでは多数の王国が興亡した。それらの国の王のなかにはラージプート族の出身を誇るものが多かったため、この時代をラージプート時代と呼ぶこともある。
諸王国の抗争
ヴァルダナ朝
グプタ朝の崩壊後、分裂していた北インドを再び統一したのはハルシャ・ヴァルダナ(戒日王)である。彼は都をカニヤークプジャ(カナウジ)におき、諸王侯のうえに君臨するという封建的体制を採用してたくみに統治した(ヴァルダナ朝)。しかしこの王国は短命で、ハルシャの死とともに崩壊した。ハルシャはヒンドゥー教・仏教の熱心な保護者としても知られる。また文芸・学問を奨励し、みずからもサンスクリット語のすぐれた戯曲や詩を書いている。この王の治世にナーランダー僧院で仏教を学んだ中国僧の玄奘は、王に招かれ厚遇を受けた。その旅行記『大唐西域記』には、国内の平和と繁栄の模様が記されている。ハルシャと太宗(唐)との間には使節の交換がおこなわれ、唐朝からは王玄策が派遣された。
ラージプート時代
ハルシャ・ヴァルダナ の王国(ヴァルダナ朝)が崩壊してからデリーにイスラーム政権がたてられるまでの数世紀間、北インドでは多数の王国が興亡した。それらの国の王のなかにはラージプート族の出身を誇るものが多かったため、この時代をラージプート時代と呼ぶこともある。
ラージプートとは「王子」すなわち「古代クシャトリヤ階級の子孫」を意味している。当時の諸王国は、5世紀ころ西インドに移住してインド化した中央アジア系の諸種族や、土着の有力種族が建設したものであるが、支配者たちは自己の支配の正統性を主張するためこの呼称を用いたのである。ラージプート諸国はたがいに抗争を繰り返し、11世紀初めから頻発するイスラーム教徒の侵入に対しても団結して戦うことはほとんどなかった。
チョーラ朝
この期間、南インドにはドラヴィダ人のたてた王国の興亡がみられた。それらのなかでも、9世紀ころ半島当南端のタミル地方におこり、東西の海上貿易で栄えたチョーラ朝(9〜13世紀)は強力であった。
この王朝はスリランカを征服し、一時ガンジス川流域にまで兵を集めている。また11世紀初めに南海貿易を有利に導くため東南アジアのシュリーヴィジャヤにまで遠征し、中国にも使節を派遣している。チョーラ朝も12世紀には衰え始め、13世紀後半に周辺諸国の攻撃を受けて滅んだ。
パッラヴァ朝
チョーラ朝以外にも、パッラヴァ朝は3世紀末から9世紀にかけて南インドの広大な地を支配した。
チャールキヤ朝
6世紀半ばにデカンでおこったチャールキヤ朝は、数系統に別れながらも12世紀末まで勢力を振るった。
南インドで興亡した諸国では、北インドから伝わった文化をうけいれつつ独自の文化を発達させている。この時代にもタミル語の文学はさかんであり、石造のヒンドゥー寺院や青銅彫刻にも新しい様式を生み出した。また7世紀ころからヴィシュヌ神・シヴァ神といった最高神に絶対的帰依を捧げるバクティと呼ばれる信仰形態がおこり、民衆の間に流行した。男女やカーストの区別をこえて受け容れられたこのバクティ信仰はやがて北インドにも伝わり、ヒンドゥー教の新しい展開をうながすことになる。
仏教の衰退
すでに往時の活力を失っていた仏教は、この時代をつうじて衰亡への道をたどり、東インドのパーラ朝のもとで最後の繁栄をみせたが、同王朝の滅亡とともにほぼ姿を消した。こうした仏教衰亡の原因としては、
- 僧院中心の宗教であったため民衆から離れたこと
- 都市経済が衰退し仏教を支えてきた商工業者が没落したこと
- 王侯たちがヒンドゥー教信仰に傾き彼らの援助が受けられなくなったこと
- ヒンドゥー教とことなり農村社会に浸透できなかったこと
- ジャイナ教とことなり一般信者が共通な生活様式で結ばれていなかったこと
- 密教化(呪術宗教化)した仏教が独自性を失いヒンドゥー教に吸収されたこと
などが考えられている。さらに、イスラーム教徒の侵入軍による僧院の破壊が、基盤を失いつつあった仏教にとどめを刺したのである。
この時代にインドの社会では、ヴァルナ制度の大きな枠組みの内部で多数のカーストが形成されつつあった。またヒンドゥー教はカースト制度を支える宗教としてインドの民衆との結びつきをますます強めた。ヒンドゥー教学もさかんで、8世紀には大哲学者シャンカラがでた。地方政権が分立したこの時代には、各地で地方色豊かな文化が発達した。たとえば地方語がしだいに洗練化され、それぞれの地方語で文学作品も書かれるようになった。
カースト社会の形成
インドの伝統的な社会は、カースト間の分業体制を基礎としていた。各カーストは結婚・食事・職業を共通にするものたちからなる排他的集団であり、そうしたカーストをヨコ(分業)とタテ(上下の身分)の関係で有機的に結合したかたちでインド社会は成り立っている。
たとえば村落は農業カーストとそれを取り巻く20〜30のカーストからなり、それぞれのカーストに所属するものがそれぞれ役割(カーストの職業)を果たすことによって毎年の生活活動が維持されているのである。また各カーストは、バラモンを最高位とし不可触民のカーストを最下位とする身分関係で結ばれており、これによって村落社会に秩序が与えられている。
こうしたカースト社会を支えたのは、この世の生まれを前世の行為(業)の結果とみなし、カーストの義務を果たすことによって「よりよい来世」が得られると説くヒンドゥー教の人生観があった。カースト社会は安定したものであり、イスラーム教徒の支配下にあっても存在し続けた。こうしたカースト社会が形成される過程については不明な点が多いが、おそらくグプタ朝以後の数世紀の間に、古代に成立したヴァルナの枠組みの内部に多数のカーストが生み出され、社会における役割を固定させたのであろう。