隋の統一 6世紀末(南北朝時代)北周では外戚の楊堅が実権を握り、581年に北周を倒して帝位(文帝)につき、国号を隋とした。589年陳(南朝)を滅ぼし、中国は長い分裂の時代を終えて再び統一し、統一国家の支配をより強固にするため、中央集権体制の確立に尽力した。
隋の統一

北魏に比べ、隋(王朝)均田制では、奴婢・耕牛への給田が廃止されたことが特筆される。
これは帝権が強化され、大土地所有者(貴族層)に対する抑制が強化されたことを明らかに示している。
文帝の子の煬帝は、江南の杭州から華北の涿郡(現北京)にいたる大運河を完成させ、万里の長城を修築するなど、大規模な土木工事を次々におこなった。
大運河は、中国の北と南をひとつに結びつける画期的な意義をもつ事業であったが、多くの農民を徴発・酷使しておこなわれたため、農村は疲弊し、民衆の不満は高まった。
また、煬帝は外征にも力を注ぎ、東突厥や高句麗、ベトナムの林邑(チャンパー)などへの遠征をおこなったが、これらも民衆の困苦を増やすものであった。
こうして、3回にわたる高句麗遠征(610、612、614)が、高句麗の激しい抵抗にあって失敗に終わると、各地で農民反乱がおこり、煬帝は江南に逃亡したあげく、混乱のなかで殺害され、隋はわずか38年で滅んだ(618)。
大運河
大運河は、旧中国において北と南を結ぶ主要な交通輸送路であった。隋以前にも地方別に運河の開削が試みられ、文帝(隋)、煬帝が以下のように整備され開通した。 これらの大運河は、次の唐(王朝)時代になってから、江南より洛陽・長安へ穀物などを輸送することにおいて大いに活用された。 宋をへて元代になって大運河は補修され、あらたに済州河、会通河が開かれ、江南の杭州より華北の天津に至る輸送路が完成した(京杭大運河)。 清末以降、他の交通機関の発達にともなって大運河の重要性は減じたが、今でも安価な交通輸送の手段として利用されている。 京杭大運河は中国の世界遺産「大運河」に登録されている。隋が登場する作品

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