インド=ヨーロッパ語系民族の進出
インド=ヨーロッパ語系民族の進出
現住地とされる中央アジアや南ロシアより紀元前2千年紀諸島に移動を開始したインド=ヨーロッパ語系民族は、他の民族(民族系統不明のフルリ人も、この時期に東方より北メソポタミアに進出し、その後各地に広がって、インド=ヨーロッパ語系の民族がたてた諸公国の人口の重要な部分を占めるようになった。)も巻き込んでオリエントに波状的に侵入した。馬(オリエント世界に初めて登場)にひかせた戦車で編成された彼らの軍隊は、そのすぐれた機動力をいかして先住民を次々に撃破し、各地に征服国家をたてた。これによって、エジプトも含めてオリエントの各地方の接触が促され、ひとつの世界としての古代オリエントが形成される道がひらけた。
古バビロニア王国が滅んだあとには、東方山地よりインド=ヨーロッパ語系の別の派であるカッシート人が侵入し、王国(バビロン第3王朝)をたててメソポタミア南部を約400年間支配した。また他の一派はフルリ人とともにミタンニ王国を形成し、紀元前15世紀から次の世紀の半ばまで、メソポタミア北部から北シリアにかけて強い勢力を張った。こうしてオリエントでは紀元前2千年紀の半ばに、エジプトの新王国も含めて諸王国が並立する複雑な政治状況が生まれたが、その後、紀元前1200年前後に上に記した民族大移動の波が東地中海地方を襲うと、混乱はさらに大きなものとなった。しかしやがて、その中から新たな勢力が台頭し、オリエント世界の新しい秩序が形づくらてていくのである。
ボアズキョイの発掘
1905年から翌年にかけて、ドイツのヴィンクラーが当時オスマン帝国領であったアナトリア高原のボアズキョイの遺跡を発掘し、ヒッタイト王国の首都ハットゥシャの存在を明らかにした。遺構より多数出土した粘土板文書の解読と研究をつうじて、やがてヒッタイト学という学問が成立し、現在は日本からも調査隊が派遣されて、小アジア各地でさかんに発掘がおこなわれている。