オスマン帝国の改革
左:マフムト2世、右:アブデュル=メジト1世 ©世界の歴史まっぷ

オスマン帝国の改革

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オスマン帝国の改革

 

オスマン帝国の改革

1792年のロシア=トルコ戦争の敗北によって、クリミア半島を奪われると、スルタン・セリム3世 Selim III (位1789〜1807)は、「新制」と呼ばれる改革案を発表し、西欧式の新軍団を設置し、その財源にあてるため、アーヤーン ayan (名士層)から徴税請負権を没収しようとした。これに対し、既得権の侵害を恐れたイェニチェリ軍団は、マフムト2世 Mahmut II (位1808〜39)を擁立し、アーヤーン勢力の削減に努めた。1862年には、イスタンブル市民の支持を背景にイェニチェリ軍団を解散して西欧式の常備軍団を編成し、イェニチェリ軍団と深い関係を持っていたベクタシュ教団を閉鎖した(①イェニチェリ軍団の解体)。また西欧の技術の習得のための各種学校を開設し、大宰相の権限を分散し、スルタンへの権力集中をはかった。このような改革は、西欧化によってヨーロッパ諸国の圧力をかわし、内部的にはスルタンの権力集中をはかるものであった。

1821年にギリシア人を中心とした独立運動がおこると(ギリシア独立戦争)、鎮圧のためにスルタンはムハンマド=アリーに出兵を要請した。これに英・仏・露諸国が介入し、ナヴァリノの海戦 Navarino (1827)においてオスマン帝国と・エジプト軍を破り、1829年のアドリアノープル条約 Adrianople によって、ギリシアの独立が認められた。ムハンマド=アリーは、シリア領有を主張して2回にわたりオスマン帝国と戦火を交え、オスマン帝国は、33年にシリアを割譲したうえ、ロシアにダーダネルス海峡の自由通行を認めた。39年の第2次エジプト=トルコ戦争では、イスタンブルにエジプト艦隊が迫り、急逝したマフムト2世のあとをついだアブデュル=メジト1世 Abdülmecid I (位1839〜61)は、英・仏の支援をえるために「ギュルハネ勅令」 Gülhane を発布し、より徹底した改革をおこなう姿勢を示した。一連の改革はタンジマートと呼ばれる。

改革は、地方では徴税請負権をもつアーヤーンなどの抵抗にあって実施されず、また改革の不徹底は、バルカンの非ムスリムの不満の種となり、ブルガリアなどで民族蜂起がおこった。ロシアは、帝国内のギリシア正教徒の保護を口実にクリミア戦争をおこし(1853)、オスマン帝国は英・仏らの支援をうけて勝利をえたが、パリ条約(1856)の締結にあたって、いっそうの改革を約束させられた。56年の改革勅令では、非ムスリム住民の諸権利が細かく保証され、土地法(1856)・民法(1869〜76)などの法制改革が進んだ。

経済の面では、イギリスエジプト=トルコ戦争における支援とひきかえに、1838年にイギリス=トルコ通商条約を結び、帝国内の全領域における自由な通商権をえ、フランスなど他の西欧諸国もこれに続いた。この結果、領内にはヨーロッパの工業製品が蒸気船によって多量に流入し、土着工業は衰退し、食料や工業原料が輸出された。また、ヨーロッパの商人や領事と結びついた、アルメニア・ギリシア・ユダヤなどの少数民族商人が台頭し、対等な権利の擁護を主張した。また、政府は、1854年にクリミア戦争の費用捻出のために外債を受け入れたのを皮切りに、対外借入を重ねたため、歳出の多くが返済に充てられ、1875年には利子支払い不能を宣言して国家財政は破綻した。

このようなタンジマートは、西欧諸国による植民地化を推進し、スルタンの専制を招く結果となった。これに対し、タンジマート期に西欧の教育・思想を享受した官僚や知識人の間から専制を批判し、立憲制にもとづく改革を主張する運動がおこり、みずから「新オスマン人」と名乗った。スルタン・アブデュル=アジーズ Abdül Aziz (位1861〜76)はこれを弾圧したが、1876年のブルガリア4月蜂起をめぐって列強との緊張が高まると、スルタンは退位し、改革運動の指導者であったミドハト=パシャ Midhat Pasha (1822〜84)の起草した憲法が発布され(ミドハト憲法)、翌年議会が開催された。しかし、議会の先鋭化を危惧したスルタン・アブデュル=ハミト2世 Abdül Hamit II (位1876〜1909)は、ロシア=トルコ戦争の勃発を理由に、1878年に憲法を停止し、議会を閉鎖した。

タンジマート

ギュルハネ勅令から1876年のミドハト憲法の発布までの時期に行なわれた一連の西欧化革命を、タンジマート tanzimat (恩恵的改革)と呼ぶ。アブデュル=メジト1世は1839年11月に、外相ムスタファ=レシト=パシャ Mustafa Reshit Pasha (1800〜56)に起草させた勅令をトプカプ宮殿の庭園(ギュルハネ)において発布し、ムスリム・非ムスリムを問わず臣民の生命・財産の保障、徴税請負制の廃止と直接税の導入、徴兵制の改革、法にもとづく統治を唱えた。改革は、外圧によってしかも上から進められたものであったが、スルタンもウラマーも改革法に従うことが宣せられ、神権的なイスラーム国家から近代的法治国家への第一歩をふみだすものであった。

西アジアの動向 オスマン帝国

オスマン帝国
1683第2次ウィーン包囲失敗
1699カルロヴィッツ条約(対オーストラリア)
1716トルコ=オーストリア戦争(〜18)
1718パッサロヴィッツ条約(対オーストラリア)、チューリップ時代(〜30)
1744頃ワッハーブ王国成立(〜1818、1823〜89)、アラビア半島で勢力拡大、首都リヤド
1768第1次ロシア=トルコ戦争(〜74)
1774キュチュク=カイナルジャ条約(対ロシア)
1787第2次ロシア=トルコ戦争(〜92)
1792ヤッシー条約(対ロシア)
1821ギリシア独立戦争(〜29)
1826イェニチェリを全廃
1827ナヴァリノの海戦
1829アドリアノープル条約(対ロシア)
1830フランス、アルジェリアを占領
1831第1次エジプト=トルコ戦争(〜33)
1833ウンキャル=スケレッシ条約(対ロシア)
1838イギリス=トルコ通商条約
1839ギュルハネ勅令(タンジマート開始、〜76)、第2次エジプト=トルコ戦争(〜40)
1853クリミア戦争(〜56)
1856パリ条約(対イギリス・フランス・ロシア)
1865新オスマン人協会結成
1876ミドハト憲法発布
1877ロシア=トルコ戦争(〜78)
1878アブデュル=ハミト2世、憲法を停止
1878サン=ステファノ講和条約、ベルリン会議(ベルリン条約)、ヨーロッパ側領土の大半を失う
1881フランス、チュニジアを保護国化
1881スーダンでマフディー派の抵抗(〜98)
参考:山川 詳説世界史図録

オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図

54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア
54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア流れ図 ©世界の歴史まっぷ

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54.オスマン帝国支配の動揺と西アジア
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