インド民族運動の展開 インド民族運動の展開 ガンディーと不服従運動
インドの民族運動の展開図 ©世界の歴史まっぷ

ガンディーと不服従運動

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ガンディーと不服従運動

第一次世界大戦が始まると、インドは自動的にイギリス側にたって参戦させられた。インドはイギリスに人的・物的の両面で協力したが、戦いが長びくにつれ、彼らの間に多大な犠牲を払った代償として自治を要求する声が高まった。

ガンディーと不服従運動

第一次世界大戦が始まると、インドは自動的にイギリス側にたって参戦させられた。この戦争でインドはイギリスに人的・物的の両面で協力したが、戦いが長びくにつれ、彼らの間に多大な犠牲を払った代償として自治を要求する声が高まった。またムスリム連盟 インド民族運動の展開)も、カリフの国オスマン帝国と戦うイギリスに反感を抱き、これまで対立してきた会議派と共同歩調をとるにいたった(1916年のラクナウ協定 Lucknow )。彼らの運動はキラーファト運動 Khilafat Movement(カリフ擁護運動)と呼ばれる。一方、大戦中に力をつけた民族資本家も、イギリスの支配からの独立を願い、民族運動を支持する姿勢を示した。イギリスは戦争遂行の必要から従来の土着産業抑制策を改め国内用・軍事用の物資の生産をうながしたため、民族産業は各方面で急速に発達してきたのである。

ガンディーと不服従運動
インドの民族運動の展開図 ©世界の歴史まっぷ

自治要求の動きを鎮めるため、イギリスは戦後に漸次自治権ぜんじじちけんを与えることを公約した(1917)。しかしイギリスは、戦後の1919年にインド人の政治活動の弾圧を目的としたローラット法 Rowlatt Act を施行し、また同年に制定されたインド統治法においても、州政治のごく一部(民生関係)でインド人の自治を認めたに過ぎなかった。こうしたイギリスの出方に、自治の実現を期待していたインド人は公約違反であると反発した。この時期に登場し、これ以後の民族運動を率いたのがガンディー Gandhi (1869〜1948)である。彼は1919年にローラット法に反対してハルタル(罷業ひぎょう)を宣言し、反英行動を民衆に訴えた。この運動の期間中パンジャーブ地方のアムリトサル悲劇(アムリトサル虐殺事件)がおこっている。1920年にはガンディーの指導する非暴力不服従運動が、国民会議派ムスリム連盟の提携のもとに全国的に展開された。この不服従運動は、1922年に運動の暴力化を恐れたガンディーの指令で突然停止され、運動員たちを落胆させた。ガンディーの徹底した非暴力主義が、彼らにまだ十分理解されていなかったのである。ガンディーの役割は、従来ほぼ都市の知識人層に限られていた民族運動を、一般大衆の参加する全インド的な運動へと高めたところにある。1922年から数年間、民族運動は停滞期を迎えるが、この間にも次の高揚にむけて準備は着実に進められていた。インド共産党が結成されたのもこの時期である(1925)。

ローラットを委員長とする委員会のインド治安状況調査をもとに設定された。裁判抜きの投獄、逮捕状なしの逮捕も可能とされた。

ガンディーと非暴力不服従

塩の行進中のガンディー(1930年3月/ WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

ガンディーはイギリス政府の法律に対抗して、海水から塩をつくるために支持者とともにボンベイ湾まで行進した。これは非暴力不服従運動の表れであり、世界中の注目を集めることになった。

ロンドンに留学し弁護士の資格をえて帰国したガンディーは、南アフリカに渡り1893年から1914までの22年間、この地に住むインド人の人権擁護のため働いた。「非暴力を武器として悪と対決する」という独自の抵抗思想はこの期間に形成され、彼はこれを「真理の把握」を意味するサティヤーグラハと呼んだ。インドに帰ったあと2次にわたり非暴力不服従運動を指導したが(1920〜22、30〜34)、これは不当な法令への不服従、納税の拒否、公職の放棄、イギリス商品の不買、国産品の使用などをつうじて独立を勝ちとろうとするものである。

糸紡ぎ車(チャルカ)はそうした闘争のシンボルであり、第2次運動のきっかけとなった塩の行進(塩の専売に反対し、自分の手で海水から塩を作るための行進)はそうした闘争の一例である。手織りの綿布を身にまとい、断食をはじめとするユニークな手段で闘うガンディーの姿は、インド民衆の心をとらえ、「マハートマ(偉大なる魂)」という尊称で呼ばれた。ガンディーはまたヒンドゥー教イスラーム教徒の融和を説き、分離独立に強く反対したが、この願いは実を結ばず、独立の翌年、狂信的なヒンドゥー教徒に暗殺された。

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