ソ連と一国社会主義
1924年にレーニンが死去すると共産党指導部内の対立が激化。スターリンは、トロツキーの世界革命論に対抗して、世界革命がなくてもソ連一国で社会主義を実現できるとする一国社会主義論を提起。この新しい指針は消極的な世界革命待機論にあきたらなかった若手党員層や労働者層を活気づけ、支持を高めた。
ソ連と一国社会主義
ソ連では1924年1月にレーニンが死去すると、以前からあった共産党指導部内の対立が激化した。1922年共産党書記長の地位についたスターリン Stalin (1879〜1953)は、レーニン死後の有力な後継者と目されていたトロツキー Trotskii (1879〜1940)の世界革命論 ❶ に対抗して、世界革命がなくてもソ連一国で社会主義を実現できるとする一国社会主義論を提起した。この新しい指針は消極的な世界革命待機論にあきたらなかった若手党員層や労働者層を活気づけ、スターリンへの支持を高めた。1927年の党大会ではスターリンはトロツキーや コミンテルン 議長ジノヴィエフ Zinov’ev (1883〜1936)も排除して、権力基盤を強化した。
ネップ( ネップとソ連の成立)によって回復したソ連経済は1926〜27年には戦前の水準に戻ったが、スターリンら共産党指導者は、ネップの成功は農村部での資本主義的要素を強める危険な側面をもつとして警戒していた。1928年、スターリンは資本主義勢力の復権を阻止し、社会主義建設を推進するために重工業化促進を提案し、野心的な第1次五カ年計画に着手した。ここにネップは最終的に放棄された。工業化のための資本は農業部門から調達する以外になかったから、五カ年計画と並行して1929年には農業集団化・機械化政策が指示され、農村では集団農場(コルホーズ Kolkhoz)、国営農場(ソフホーズ sovkhoz)建設 ❷ が強行され、さらに予定された穀物調達量を確保するため、自家消費分まで供出させられた。
五カ年計画は、工業化と農業集団化を基礎とする社会主義建設。
農業集団化には農民側の抵抗が大きく、集団化前に家畜などを大量に処分する例も多く見られたが、彼らはクラーク Kulak (富農層)の手先と一括され、反革命分子として逮捕、追放、強制収容所への投獄などの処分をうけ、その間に多数の犠牲者をだした。集団化は形式的には達成されたが、農民の労働意欲は低下し、生産は停滞した。1932〜34年にはウクライナ・ヴォルガ流域など穀倉地帯で大規模な飢餓が広がり、400万といわれる死者をだしたが、これは集団化や強制調達にも原因があった。欧米諸国にもこうした事実は知られていたが、大恐慌のなかにあった欧米諸国は計画経済下に加速度的に進行するソ連の工業化の成果に目を奪われ、それがもたらした負の面を重視しなかった。
この間対外的には、ソ連は1922年ヴェルサイユ体制のもとに排除されていたドイツと国交を回復したことをのぞけば、国際社会でほとんど孤立していた。24年以降になると、イギリス・フランス・イタリアなども国交を樹立し、警戒はされながらも徐々に国際社会の場に復帰していった。しかし、国内の社会主義建設方針と呼応して、 コミンテルン ( ソヴィエト政権と戦時共産主義)は1928年、資本主義の相対的安定期は終わり、階級闘争が激化する第3期に入ったとの現状分析のもとに、この段階では階級対立を曖昧にする社会民主主義勢力こそが主敵である(社会ファシズム論)とする急進的な左派方針に転じた。この方針は各国共産党にファシズムやナチズムの危険性を過小評価させる一因となった。同時にそれは コミンテルン がスターリンの意向やソ連の利害を重視する組織に変容しつつあることも示していた。
ソ連の経済政策
戦時共産主義:レーニン | |
1918〜 | 内戦・干渉戦争への総動員体制 ・中小工場の国有化 ・穀物の強制徴発、食料配給制 ・労働義務制、賃金の現物給与 生産意欲減退 → 食料不足 |
ネップ(新経済政策):レーニン | |
1921〜 | 戦時共産主義の放棄 ・穀物徴発の廃止 → 食料(現物)税導入 ・小農経営、小規模私企業の容認 生産力回復 |
五カ年計画:スターリン | |
1928〜 | 経済全体の社会主義的改造 ・第1次(1928〜)、第2次(1933〜) ・農業の集団化、機械化の推進 → コルホーズ・ソフホーズの成立 ・重工業優先政策の推進 ソ連の工業国化、農業の荒廃 スターリン独裁体制の確立 |