ドイツ帝国の成立
プロイセン=フランス戦争末期の1871年にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝の即位宣言式がおこなわれ、ドイツ帝国が成立した。この行為は、ドイツ・フランス間の禍根となり、のちに第一次世界大戦の対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約の調印がこの「鏡の間」でなされた。
ドイツ帝国の成立
プロイセン=フランス戦争末期の1871年にヴェルサイユ宮殿「鏡の間」でヴィルヘルム1世のドイツ皇帝の即位宣言式がおこなわれ、ドイツ帝国が成立した。この行為は、ドイツ・フランス間の禍根となり、のちに第一次世界大戦の対ドイツ講和条約であるヴェルサイユ条約の調印がこの「鏡の間」でなされた。
ドイツ帝国は連邦制国家で、プロイセン王が皇帝を兼ね、立法府は各連邦の代表からなる連邦参議院と普通選挙制で代表が選出される帝国議会からなっていた。しかし議会は政府に対してほとんど無力であり、ドイツ帝国の官僚にはユンカー出身者の貴族が占めていたので、立憲君主政は形式的なものにとどまっていた。
統一後に南ドイツを基盤とするカトリック政党である中央党がビスマルクに抵抗したが(文化闘争)、この闘争はピウス9世(ローマ教皇)の死によって自然消滅した。ビスマルクの産業保護政策はドイツの急速な工業化の進展と高度化を実現し、労働者の数は増大し、全国的な組織化をはかったので、侮れない勢力にまで成長した。
ドイツの社会主義・労働者勢力の動向をみると、ラサール Lassalle (1825〜64)が組織した全ドイツ労働者協会(1863年結成)と、ベーベル Bebel (1840〜1913)やリープクネヒト Liebknecht (1871〜1919)らが率いるアイゼナッハ派(社会民主労働者党 1869年結成)が、75年合同してドイツ社会主義労働者党を結成し、ゴータ綱領(カール=マルクスが痛烈に批判した綱領)を採択した。こうした動きに対してビスマルクは皇帝狙撃事件をきっかけに78年社会主義者鎮圧法を制定して弾圧したが、社会主義労働者党は党勢を維持・拡大し、90年の選挙では最高得票数を獲得した。ビスマルクが引退し、さらに社会主義者鎮圧法が失効したのち、ハレ大会において、社会民主党と改称し、翌年エルフルト綱領を採択してマルクス主義路線を明確にした。
一方、ビスマルクは労働者に対して弾圧(鞭)のみでなく、彼らの生活保護や福祉のための社会立法(飴)をおこなった。つまり、社会改良的な法律をつくることによって、労働者の生活を保護した。1883年には疾病保険法が制定され、89年の養老保険法などつぎつぎと法令がだされ、それらは外国にも影響を与え、今日の社会福祉政策の基礎となった。