南インドの諸国
デカン地方では紀元前2世紀ころサータヴァーハナ朝がおこり、都をプラティシュターナにおき、北インドの文化を導入しつつ統治体制を整備し、半島東西の諸港を拠点とした対ローマ貿易で強大となった。半島の南端部にはアショーカ王の時代からドラヴィダ人の諸国が存在し、独自の文化を維持するとともに、北インドの文化や制度を導入して国力の充実に努め、対ローマ貿易にも積極的であった。
南インドの諸国
サータヴァーハナ朝
デカン地方では紀元前2世紀ころサータヴァーハナ朝(アーンドラ朝)がおこり、都をプラティシュターナ(現パイタン)におき、北インドの文化を導入しつつ統治体制を整備し強大となった。この王国の繁栄は半島東西の諸港を拠点とした海上貿易によるところが大きい。とくに対ローマ貿易は重要で、1世紀ごろモンスーンを利用してアラビア海を横断する航海法が発見されて以来、いっそう活発に行われた。当時の貿易のようすがギリシア人の航海者によって書かれた『エリュトゥラー海案内記』に記されている。それによるとインドからは胡椒・綿布・真珠・象牙細工などが輸出され、ローマからは陶器・ガラス器・酒・金貨・銀貨などが輸入されている。金貨のインドへの流出は当時ローマにとって経済上の大問題であった。今日、南インドの各地から埋蔵されたローマ金貨が多数発見されている。繁栄を誇ったサータヴァーハナ朝も3世紀に入ると衰退に向かい、やがて滅んだ。
ドラヴィダ人諸国
その南方、半島の南端部には、アショーカ王の時代からドラヴィダ人の諸国が存在していた。いずれの王朝も独自の文化を維持するとともに、北インドの文化や制度を導入して国力の充実に努め、対ローマ貿易にも積極的であった。ドラヴィダ系諸語のひとつタミル語の文学作品には、西暦紀元の初期にまでさかのぼるものもある(シャンガム文学)。