国共合作と五・三〇事件
ロシア革命後、コミンテルンの支援をうける中国共産党と、改組した孫文の中国国民党は1924年、第1次国共合作を決定した。1925年、上海の日本人経営の紡績工場でおきたストライキを機に排日の気運が高まり、反帝国主義運動へ発展した(五・三〇事件)。
国共合作と五・三〇事件
第三革命( 中国革命と帝政運動)のあと、中国の革命運動は停滞したが、1917年のロシア革命は、孫文 らの活動にひとつの転機を与えた。1919年ソヴィエト政府の外務人民委員代理カラハン Karakhan (1889〜1937)は宣言を発し、帝政ロシアが中国にもっていた一切の帝国主義的特権を放棄し、平等の立場にたって民族運動を支援しようとする意図を表明した(カラハン宣言)。この声明は、中国の革命指導者の心を大きく動かし、これに加えてこの年おこった五・四運動は、民衆運動と連合することの重要性を強く認識させた。このような状況のもとで、孫文は、従来秘密結社的な政党であった中華革命党を中国国民党と改称して、国民大衆に立脚する公開政党への再編をはかり、革命運動をさらに広い基盤の上に展開する方針をとった。
一方、すでに1918年に北京大学において、マルクス主義研究が発足されており、陳独秀や李大釗らが、この会の中心メンバーとして活躍していた。彼らは、五・四運動における反帝国主義・反封建主義の高まりや、中国社会主義青年団の成立などを背景として、中国共産党の結成をはかった。コミンテルンの指導のもとに、陳独秀を委員長とする中国共産党が上海で結成されたのは、1921年7月のことであり、軍閥・帝国主義の打倒、中国の独立と自由の獲得などを当面の目標として掲げた。
このころ、孫文は従来の革命が成功しなかった理由を多面的に考察し、また、1923年にソ連代表ヨッフェ loffe (1883〜1927)と会談し、当面の情勢を分析した結果、中国国民党を改組する必要性を痛感するにいたった。そしてまた、知識人を中心とする従来の運動方針に反省を加え、国民大衆も協調する国民革命の実現をめざした。同年末、コミンテルン( ソヴィエト政権と戦時共産主義)代表のボロディン Borodin (1884〜1951)が孫文の顧問となり、いっさいの革命勢力を国民党のもとに集結することを勧告した。孫文はこれをうけ、1924年1月、第1回国民党全国大会(一全大会)において、中国国民党と中国共産党の連携(合作)を正式に決定した。また「連ソ・容共・扶助工農」の三大政策をかかげ、共産党員が個人の資格で国民党に入党することを認めた(第1次国共合作)。この大会において孫文が提示した建国大綱は、三民主義( 革命の胎動)の新しい理論的展開として重要である(新三民主義)。また、国民革命を達成するため、革命軍の幹部養成を目的として黄埔軍官学校 ❶ が創設され、さらに農民運動の活動家育成をめざして農民運動講習所が設立された。1925年孫文は、革命事業半ばにして病死したが ❷ 、国共の合作によって中国国民党の勢力は急速にのび、やがて国民革命の展開につながることとなった。
❷ 孫文の遺言である「革命はいまだ成功せず。同志すべからく……継続努力して目的を貫徹すべし。……」の語は孫総理遺嘱として有名である。
建国大綱
1924年4月、孫文は、国共合作後の新たな国民革命の基本方針として、25カ条からなる「建国大綱」を発表した。そのおもな内容は以下のごとくである。
- 国民政府は、革命の三民主義・五権憲法にもとづき、中華民国を建設する。
- 建設の第一は、民生にある。故に、全国人民の食・衣・住・行の四大需要に対しては、政府は、人民と協力して、農業の発展をはかり、もって民の食を充足し、紡績の発展をはかって、民の衣をゆたかにし、大計画による各様の住居を建築して、民の居を楽にし、道路・運河を修治して、民の行(往来)を便利にする。
- その二は、民権である。故に、人民の政治・知識・能力に対して、政府は、これを教え導き、もって、選挙権・罷免権・創制権(法律の制定)・複決権(法律の改廃)を行使させる。
- その三は、民族である。故に、国内の弱小民族に対しては、政府は、これをたすけ、自決・自治をするようにさせる。また外国の侵略・強権に対しては、政府は、これに抵抗し防御する。同時に各国との条約を改定し、国際的平等と国家の独立を回復する。
一方、労働運動の展開をみるに、1920年代になると中国の工業のなかでもとくに紡績業の発達はめざましく、労働者数も増加し、25年には労働組合の全国組織である全国総工会が成立した。この年、上海・青島の日本人経営の紡績工場でストライキがおこったが、これを契機として排日の気運が高まり、学生運動と連携して大規模な抗議活動を展開した。このデモ活動に対し5月30日、警官が発砲した数の死者がでたことから、運動は過激化するにいたり、いわゆる 五・三〇事件 と呼ばれる反帝国主義運動へ発展した。これを抑えるために、上海共同租界の警備にあたっていたイギリスの官憲のほか、各国の軍隊も出動したので、中国民衆の反帝国主義運動はいっきょに高まりをみせ、上海だけではなく、北京・武漢・天津・青島の各地にも波及した。とくに広州と香港の労働者は、いわゆる省港ストを断行し、約15ヶ月にわたってイギリスの経済活動に大打撃を与えた。
軍閥政権の推移
袁世凱の死後、北京政府の実権を握ったのは、袁世凱の配下であった北洋軍閥の巨頭たちであった。彼らは馮国璋 (1859〜1919)・曹錕 (1862〜1938)・呉佩孚 (1874〜1939)らの直隷派、段祺瑞 (1865〜1936)らの安徽派に分かれ、前者は英・米の、後者は日本の支援をうけて北京政権の争奪戦を展開した ❸ 。のみならず地方各地にも、東北地方(満州)を根拠地とする奉天派の張作霖 (1875〜1928)、山西派の閻錫山 (1883〜1960)、西南派の唐継尭 (1883〜1927)・陸栄廷 (1856〜1927)らの軍人政権(軍閥)が割拠し、たがいに抗争をくりひろげた。これら軍閥は、戦費調達のため、それぞれに帝国主義列強の支援をうけて、その中国市場進出に便宜を与えたほか、地方では大地主層と結託して農民を過酷に搾取した。