マムルーク 大陸封鎖とヨーロッパ諸国のナショナリズム 半島戦争
半島戦争「1808.5.2 マムルークの突撃」(フランシスコ・デ・ゴヤ画/プラド美術館蔵)画像出典:WIKIMEDIA COMMONS

大陸封鎖とヨーロッパ諸国のナショナリズム

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大陸封鎖とヨーロッパ諸国のナショナリズム

ナポレオンの征服は、自由・平等のフランス革命精神を被征服地の諸民族に広めた。自由の精神は、圧政に対する抵抗、他国の支配からの独立など、ナポレオンの支配下諸国民のナショナリズム、反ナポレオン運動を生みだした。

大陸封鎖とヨーロッパ諸国のナショナリズム

47.ナポレオンの登場と大陸支配流れ図
47.ナポレオンの登場と大陸支配流れ図

屈服しないイギリスに対し、大陸封鎖が行われた。ナポレオンは1806年のベルリン勅令(大陸封鎖令)で、大陸諸国とイギリスの貿易や通信を全面的に禁止した。イギリスおよびその植民地の商品の取り引き、それらの地域から来た船の入港も禁止された。これはイギリスに経済的圧力を加えると同時に、フランス産業資本に大陸市場を確保しようとするものでもあった。

ナポレオンのエジプト遠征 ナポレオン時代のヨーロッパ地図
ナポレオン時代のヨーロッパ地図(1812年頃)©世界の歴史まっぷ

しかし、イギリスに穀物を輸出しイギリスから生活必需品・工業製品を輸入しているロシア・プロイセン・オーストリアなどでは、封鎖令は国民経済を破壊するものであった。フランスの工業製品はイギリスより高く、農業国であるフランスは穀物の輸入を必要としなかったからである。また、フランスの木綿製造業をはじめとするヨーロッパの工業も、海外からの原料の輸入ができず苦しんだ。大陸封鎖はヨーロッパの経済システムを無視したものであった。

ナポレオンの征服は、自由・平等のフランス革命精神を被征服地の諸民族に広めた。自由の精神は、圧政に対する抵抗、他国の支配からの独立など、ナポレオンの支配下諸国民のナショナリズム、反ナポレオン運動を生みだした。

プロイセンでは、ナポレオン支配下でシュタイン Stein (1757〜1831)やハルデンベルク Hardenberg (1750〜1822)らが指導したさまざまな改革がおこなわれた。人身の自由を認めた農奴解放、年自治制度の改革、中央行政機構改革などである。グナイゼナウシャルンホルストが進めた軍制改革は、フランスの制度を学んだものであった。フンボルト Humboldt (1767〜1835)による教育改革もおこなわれ、ベルリン大学も創設された。戦争の敗北で自信を喪失したドイツ人に対して、哲学者フィヒテ Fichte (1762〜1814)は「ドイツ国民に告ぐ」という講演でドイツ人の愛国的心情を鼓舞した。

スペインもブルボン家が追放されたあと、ナポレオンの兄ジョゼフが王となりフランスの支配下におかれた。1808年5月、首都マドリードで市民の反フランス反乱がおこった。これはフランス軍により過酷に鎮圧されたが、反乱と抵抗は地方に広がり、1814年まで根強いゲリラ活動がくりひろげられ、この「半島戦争」はナポレオンを悩ませた。

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