戊戌の変法
戊戌の政変 ©世界の歴史まっぷ
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戊戌の変法

1890年代後半、帝国主義列強の中国侵略が再び激化。中国の危機を救うため立憲制の政体へ転換する必要を説く康有為の主張は、若い光緒帝を動かし、1898年「明定国是の勅令」を発布、康有為・梁啓超らを登用し政治改革を断行した。

戊戌の変法

日清戦争の敗北は、洋務運動 洋務運動)を完全な挫折に追いこむとともに、中国の知識人層に深い危機感をもたらした。とくに若い知識人の間では、中国伝統の専制体制をあくまで固守しようとする洋務運動のあり方を批判し、中国の真の近代化のためには、伝統的な君主独裁の専制体制そのものの変革が必要であるという認識が強まっていった。彼らは、西欧の近代政治思想の刺激をうけるとともに、近代化改革のモデルとして日本の明治維新を強く意識し、欧米・日本の近代的政治体制と理念をとりいれた議会政治や立憲君主制の樹立などを主張した。洋務運動にかかわって1890年代に高揚した、このような中国の伝統的専制体制の変革と、議会政治と立憲君主政の樹立を目標とする近代化運動を変法運動変法自強へんぽうじきょう)という。その中心となったのが、公羊くよう学派の儒学者であった康有為こうゆうい(1858〜1927)であった。

厳復と『天演論』

康有為と同じころ、中国の若い知識人層に強烈な衝撃を与えたものに、厳復げんふく(1853〜1921)がイギリスの T.ハックスレーの『進化と倫理』を訳解した『天演論てんえんろん』(1898)がある。厳復がこの書で紹介したのは、社会進化論と呼ばれるもので、人間社会にもダーウィンが自然界において説いたような「優勝劣敗」「適者生存」の自然淘汰の原則が作用するというものである。

これにより人々は、強まる外圧のなかで、中国が「不適者」として滅亡する危機を痛切に認識したのである。厳復は、その後もアダム=スミスやモンテスキューの翻訳をつうじて、西欧近代思想の紹介と普及に尽力した。

公羊学

公羊学とは、儒教の経典『春秋』の注釈書「左氏さし伝」「穀梁伝こくりょうでん」「公羊伝」のうち、「公羊伝」を正統とする学派で、政治上の実践をとくに重視した。文献研究に没頭する考証学とは対照的なこの学派は、アヘン戦争後の清朝の危機のなかで、危機克服の意識とともにさかんとなり、『海国図志』の著者ぎげん龔自珍きょうじちんらが活躍した。康有為の『大同書』は、公羊学の伝統に西洋政治思想や仏教の要素もとりいれ、なおかつ斬新な独創を加えて、壮大な未来のユートピアを構想するきわめてユニークな思想書であり、清末政治思想のひとつの特異な成果として注目されるものである。

康有為は『孔子改制考こうしかいせいこう』を著し(1892)、儒学の祖である孔子は、守旧の人ではなく、聖人の言をかりて当時の政治の改革を実現しようとした改革者であったという大胆な新解釈を提示して、変法運動の理論的根拠とするとともに、知識人層に大きな衝撃を与えた。このようにして康有為は、梁啓超りょうけいちょう(1873〜1929)らとともに、文筆・教育活動をつうじて若手の官僚・知識人層に多くの支持者を集め 譚嗣同たんしどう(1865〜98) 黄遵憲こうじゅんけん(1848〜1905)など有力な同志を獲得していった

康有為は北京に強学きょうがく会を設立して啓蒙活動に努め、1896年に強学会が弾圧をうけて閉鎖されると、梁啓超らは、雑誌『時務報じむほう』を創刊して啓蒙活動を継続していった。

譚嗣同は、南学会の設立など湖南省を舞台に精力的な変法運動を展開した若手知識人で、その著書『仁学じんがく』は専制君主政への激しい非難とともに、自然科学的発想によって人間社会を把握しようとするユニークな思想書として知られる。

1890年代後半、帝国主義列強の中国侵略が再び激化するなかで、清朝と中国の危機を救うため立憲制の政体へ転換する必要を説く康有為の主張は、若い光緒帝こうしょてい(位1874〜1908)を強く動かした。保守派の妨害をふりきって政治改革を決意した光緒帝は、1898年6月「明定国是めいていこくぜ(明らかに国是を定める)の勅令」を発布し、康有為・梁啓超らを登用して政治改革を断行させた。これを戊戌の変法ぼじゅつのへんぽうという。康有為らは、科挙の改革(八股文はっこぶん を廃止し、西学せいがくを試験科目に導入する)や、新官庁の創設、京師大学堂(北京大学の前身)をはじめ近代的学校の創設など、多くの改革案を次々と発布した。しかし、変法に反対する保守派は、西太后せいたいごう(前帝同治帝の母后、1835〜1908)のもとに結束し、同年9月、クーデタをおこして光緒帝を幽閉し、政権を奪取した。譚嗣同たんしどうら6名が処刑され、康有為・梁啓超らは失脚して日本に亡命し、変法派は一掃されて、戊戌の変法はわずか3ヶ月余りで挫折に終わった(百日維新)。このクーデタを戊戌の政変という。これ以後、西太后のもとで保守派が政権を握り、朝廷には排外的な傾向が強まっていった。

八股文とは、儒教の教義に関するテーマを、煩瑣はんさな規則をともなうきわめて固定された形式のなかで論ずるもので、科挙の試験の中心をなすものであった。

戊戌の変法の失敗にはさまざまな要因が考えられる。それは変法運動があくまで社会上層の知識人階層の運動に止まって、民衆の支持基盤を欠いたことである。そして康有為ら変法運動のリーダーは、仇教運動きゅうきょううんどうなどの下からの民衆運動を蔑視・警戒するエリート知識人の意識を一歩も抜けだせなかった。ここに大きな失敗の原因が求められる。

西太后
西太后(WIKIMEDIA COMMONS)©Public Domain

西太后

満州族の名門エホナラ氏の出身。政敵の弾圧には果断な実行力を示しながらも、中国のおかれている現状を理解することなく、その政権のもとでは、海軍再建のための資金も、贅を尽くした離宮、頤和園いわえんの修築に流用されてしまった。

日本史からみた戊戌の変法

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