戦争の経過とパリ条約
正規の軍事訓練をうけていない大陸軍は苦戦を続けたが、1777年、サラトガの戦いでイギリス軍に勝利したのを契機に、フランスは合衆国の独立を承認し、イギリスに宣戦布告し、スペインも対英宣戦をおこなった。エカチェリーナ2世の提唱で武装中立同盟がつくられ、イギリスは国際的にも孤立した。
1781年ヨークタウンの戦いでイギリス軍は降伏し、1783年、植民地と本国の間にパリ条約が締結されアメリカ合衆国は独立を承認され、広大な土地を割譲された。
戦争の経過とパリ条約
ジョージ=ワシントンの率いる大陸軍は、数万のイギリスの正規軍を相手に苦戦を続けた。植民地兵は勇敢ではあったが、正規の軍事訓練をうけていなかった。将校たちの指揮経験も少なく、いくつかの先頭で敗北を続けた。しかし彼らは敗北から学ぶ能力をもっていた。
1777年、植民地軍はサラトガの戦いでイギリス軍に大きな勝利をおさめた。装備、訓練で劣っていた大陸軍に海外からフランスの若き貴族ラ・ファイエット、ドイツの軍人フリードリッヒ・ヴィルヘルム・フォン・シュトイベン、ポーランドの愛国者コシューシコ(タデウシュ・コシチュシュコ ポーランド分割)などが義勇兵として参加した。シュトイベン男爵は厳しい規律できたえられたプロイセン軍の将校で、アメリカ兵のための軍事教練の教則書をつくり、実戦にも参加した。
フランスとの同盟のため、大陸会議から代表としてフランスに派遣されていたベンジャミン=フランクリン(1706〜1790)は、フランス人の間に非常に人気があった。彼の人気に加え、七年戦争敗北以来イギリスに報復の機会をねらっていたフランス政府は、参戦には慎重であったが、ひそかに金銭的援助や物資補給で植民地の支援を続けていた。サラトガの勝利の報せは、このフランス政府を参戦にふみきらせた。1778年、フランスは合衆国と和親・通称の条約を結び、正式にその独立を承認し、軍事同盟に同意し、イギリスに宣戦を布告した。こうしてフランスの陸海軍が戦争に加わることになった。翌年、フロリダ回復をねらっていたスペインもフランスの同盟国として対英宣戦をおこなった。また、イギリス海軍が大陸への援助を妨害したことから、1780年、ロシアのエカチェリーナ2世の提唱でヨーロッパ諸国の参加する武装中立同盟がつくられ、イギリスは国際的にも孤立した。
ラ・ファイエット ワシントンの若き副官であった彼は、勝利したヨークタウンの戦場からフランスに「劇は終わった。第5幕がちょうど終了したところだ」と書き送った。
1781年、ヨークタウンで大陸軍とフランス陸海軍は、チャールズ・コーンウォリスの率いる7000のイギリス軍を包囲、降伏させた(ヨークタウンの戦い)。戦争は事実上、植民地の勝利というかたちで終結した。本国では強硬派のトーリ党内閣にかわり、穏健派のホイッグ党内閣が成立し、1782年仮講和条約が結ばれた。
1783年、植民地と本国の間にパリ条約(1783)が締結され、アメリカ合衆国は独立を承認されたばかりでなく、13の植民地の面積をうわまわるミシシッピ川以東の広大な土地を割譲された。
ベンジャミン=フランクリン
イギリスから移住したボストンのロウソク製造職人の子。独学で当時のヨーロッパ一流の学者や啓蒙思想家の文や思想を学んだ。17歳でフィラデルフィアに行き、印刷業を始めた。さらにその後『ペンシルヴァニア・ガゼット』を発行、その編集を続けた。最初の無料公立図書館を開き、のちのフィラデルフィア図書館の基礎をきずいた。彼の印刷所は植民地の公文書や紙幣の印刷をひきうけ、かなりの利益をあげた。1732年、『貧乏リチャードの暦』を出版した。暦のなかにユーモアに満ちた実用的な警句やことわざや詩を入れたのが人気を博し、これが毎年出版されることになり、彼は一躍、国の内外の有名人となった。彼の学問は「独創的で実利的」であったが、フランス、イタリア、スペイン、ラテンの各言語を修め、避雷針の発明にみられるような自然科学研究以外にも政治・哲学などの人文科学を含め、多方面の領域で研究活動、論文記述をおこなっている。政治家としても活躍し、第2回大陸会議のペンシルヴェニア代表、独立宣言の起草委員を務め、1776年には大陸会議の代表としてフランスにわたり活躍、1783年のアメリカ政府代表の一員としてパリ条約(1783)を集結した。