東南アジア諸国の民族運動
東南アジアの動向 ©世界の歴史まっぷ

東南アジア諸国の民族運動

インドシナ(仏):ホー=チ=ミンがベトナム民主共和国の独立宣言・第1次インドシナ戦争
タイ:絶対王政から立憲君主制へ移行
ミャンマー(伊):インド統治法にりインドから分離・独立(1948)
マラヤ(伊):マラヤ連邦独立(1957)・シンガポール独立(1963)
インドネシア(蘭):インドネシア共和国独立(1949)
フィリピン(米):フィリピン共和国独立(1946)

東南アジア諸国の民族運動

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フランス領インドシナ

第一次世界大戦後、フランス領インドシナでは南部のこめプランテーション、北部の鉱業などで生産の向上がみられ、また都市の経済も進展した。それにともない、都市の知識人層を中心とする民族運動もさかんになり、1925年にホー=チ=ミン Ho Chi Minh (胡志明 1890〜1969)によってベトナム青年革命同志が組織され、1930年にはこの会が母体となりインドシナ(ベトナム)共産党が誕生した。1940年、大東亜共栄圏を口実とする日本軍のインドシナへの侵略(仏印進駐)が開始されると、民族主義者たちは共産党を中心とする反日・反仏の統一戦線であるベトナム独立同盟会(ベトミン Viet Minh, 1941)を組織してこれに抵抗した。1945年3月、太平洋戦争における敗色がこくなった日本軍は、フランス領インドシナを解体して旧アンナン(阮朝)皇帝バオダイ Bao Dai (保大 1914〜97)のもとにおけるベトナム帝国の独立、シハヌーク Sihanouk (1922〜2012)のもとにおけるカンボジア王国の独立を承認し、翌月にはラオス王国の独立も認めた。しかし8月に日本軍が降伏すると、ベトミンはバオダイを退位させ(阮朝滅亡)、翌月ホー=チ=ミンがベトナム民主共和国の独立を宣言した。フランスは旧植民地に生まれたこれらの国の独立を認めず、支配の復活をめざして侵攻したため、ここに第1次インドシナ戦争(1946〜54)が始まった。

タイ

タイでは1910年に、専制君主の立場から近代的中央集権国家の建設を進めてきたラーマ5世(チュラロンコン)が死んだ。この路線はその後も一応継承されたが、第一次世界大戦後の世界的不況で国家財政も国民の生活もともに困窮化し、専制王政への不満が高まった。この不満は1932年に若手の軍人・官僚が組織する政治改革グループ人民党の無血クーデタ(立憲革命)というかたちで爆発し、この結果、タイの政治は絶対王政から立憲君主制へと移行した。その後、人民党内部の武官派を代表するピブン Phibun (1897〜1964)が首相となり(1938)、国名をシャムからタイ(「自由」の意味)に改め国粋主義的な政治を推進した。ピブン政府はまた日本に接近し、太平洋戦争が始まると日本側にたって連合国に宣戦した。しかし日本軍が劣勢になると強い反発をうけ、ピブンは首相の座から追われた(1948年復帰)。

ミャンマー

インド帝国の一部とされたミャンマー(ビルマ)では、第一次世界大戦後に民族運動の波がおこった。ストライキや暴動も発生し、民族主義的政治結社タキン党 Thakin なども組織されている(1930)。この結社はその後に急成長し、民族運動の中心となった。イギリスはこうした動きを弾圧したが、一方では議会制を導入し、部分的な自治を認めるなどの妥協策も採用した。また1935年に制定されたインド統治法によってミャンマーはインドから分離され、イギリス王国の代理である総督によって統治されることになった。太平洋戦争が勃発すると日本はこの国に進出し、1943年にバモー Ba Maw (1893〜1977)を元首とするミャンマーの独立を承認している。しかし、その承認が真の独立を認めたものではないことがわかると、ミャンマーは反感を強め、1945年3月にアウン=サン Aung San (1915〜47)らが軍隊を率いて抗日闘争をおこした。日本の敗戦とともにミャンマーにはイギリスの統治が復活したが、隣国インドと同様に完全独立は目前に迫っていた(1948年独立)。

「われらビルマ人連盟」の別称。党員が「主人」を意味するビルマ語のタキンを名前に冠して呼びあったことから、こう呼ばれた。

イギリス領マラヤ(マラヤ連邦・シンガポール)

海峡植民地マレー連合州・非連合州から成るイギリス領マラヤにおいても、第一次世界大戦後に植民地支配に抵抗する動きがみられるようになった。しかしイギリスは、旧王族・マレー人・中国人・インド人の間の対立感情をたくみに利用しながら植民地支配を続けた。1941年に太平洋戦争が勃発すると、日本軍はただちにこの地域に侵入し、翌年2月にはシンガポールを占領した。このとき日本軍に抵抗した中国人が各地で多数殺害されるという事件がおこっている。日本の軍政下では、マレー人(とくに王侯)に対する保護と中国人に対する弾圧という分割統治政策が採用された。第二次世界大戦後、この地域ではマラヤ連邦(1957)とシンガポール(1963)が独立するが、民族構成が複雑なこともあり、その独立までには同じイギリスの植民地であったインドやミャンマーとくらべて長い年月を必要とした。

オランダ領インド(インドネシア)

オランダ領インド(インドネシア)では、1911年に結成されたサレカト=イスラーム( イスラーム同盟 )。が第一次世界大戦期から民族の団結を唱えて植民地支配に抵抗したが、大戦後にオランダの弾圧によって力を弱めた。これに対し同盟内の左派グループが中心となり、1920年にインドネシア共産党が組織された。共産党は各地で反植民地蜂起を指導するなど活発な活動を展開したが、これも植民地政庁の大弾圧をうけ、1927年にはほぼ壊滅した。同じ1927年に、オランダ留学経験者などのエリートたちはスカルノ Sukarno (1901〜70)を党首とするインドネシア国民党を結成し、独立(ムルデカ)を目標として掲げたが、これもまた弾圧をうけて1931年に解散した。民族運動はこうしてつぎつぎに抑えこまれたが、太平洋戦争の勃発とともに事態は大きく変わった。この地に進出した日本は、1942年から3年半にわたって軍政をしき、軍需物質の増産などを求める一方、インドネシア人の協力をえる必要から民族主義者と妥協し、インドネシアの独立を準備するなど懐柔策も採用した。1945年8月15日に日本軍が降伏すると、日本軍政中に政界に復帰していたスカルノは、同志のハッタ Hatta (1902〜80)らとはかって8月17日に独立宣言を読みあげた。スカルノを初代大統領とするインドネシア共和国は、植民地支配の再開をもくろんで軍隊を派遣したオランダに武力で対抗し(独立戦争)、1949年のハーグ協定で最終的に独立を達成した。

フィリピン

アメリカ統治下のフィリピンでは、1907年に選挙が実施され議会が開設された。また1916年にはアメリカ議会を通過したジョーンズ法 Jones Acts によって二院制議会が設置され、立法権の一部がフィリピン人の手に渡った。このジョーンズ法はその前文で、将来におけるフィリピンの独立を約束していた。1930年代に入ると、アメリカ国内でもフィリピン領有に反対する声が高まった。これをうけて、1934年にはフィリピン独立法として知られるタイディングズ=マクダフィー法 Tydings-McDuffie Law が制定され、10年後(1946年7月4日)におけるフィリピン共和国の独立が約束された。翌年には独立準備政府が発足している。太平洋戦争が勃発すると、フィリピン全土は日本の軍政下におかれることになった。日本軍の統治に対するフィリピン人の反抗はしだいに強まり、各地で抗日ゲリラ活動も頻発した。日本はこれに対処するため1943年10月に傀儡国家としてのフィリピン共和国を樹立させたが、抗日運動はいっそう激化した。1944年秋以降、日本軍は再上陸したアメリカ軍に撃破され、45年9月に完全降伏した。こうしてフィリピンは再びアメリカの統治下におかれたのち、予定された1946年7月4日に共和国として独立した。

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