東欧・バルカン諸国の動揺
第一次大戦後、中東欧に成立した新興独立国家群は、チェコスロヴァキアをのぞいて、共通して農業が主要経済であり、旧帝国から分離したため自立的経済単位となる基盤に欠けていた。民族自決権を根拠にした国家にもかかわらず、多くは多民族構成国家であり、国内の民族対立にも直面していた。
東欧・バルカン諸国の動揺
戦後、中東欧に成立した新興独立国家群は、工業基盤が比較的整っているチェコスロヴァキアをのぞいて、共通して農業が主要経済であり、旧帝国から分離したため自立的経済単位となる基盤に欠けていた。また、多くの国では大土地所有制が有力で、地主層と農地分配を求める零細な農民との対立は大きな問題であった。民族自決権を根拠にした国家にもかかわらず、ポーランドが150万人のドイツ人を、チェコスロヴァキアは325万人のドイツ人と70万のハンガリー人を、さらにルーマニアが175万のハンガリー人をかかえてたように、多くは多民族構成国家であり、国内の民族対立にも直面していた。ほとんどの新興国に当初議会制民主主義が導入されたが、国民には政治的経験に乏しく、一方ソ連と国境を接する国家が多かったことから、ソ連への警戒や社会主義革命の波及に対する不安も強かったので、強力な国家指導による権威主義的国民統合の志向が共有されていた。1920年代半ばから、東南欧諸国の民主主義は危機を迎えていた ❶。
ポーランド
ポーランドはポーランド=ソヴィエト戦争の後、東方に領土を拡大したが、それは国内の多民族構成をいっそう複雑にする結果になり、一方で戦後5年間で政府が11も交替し、議会には30もの政党が乱立する有様で、政治的混乱がおさまらなかった。こうした事態を前に、1926年、独立運動の指導者ピウスツキ Pilsudski (1867〜1935)が軍部を背景にクーデタをおこし、軍部を中心とする権威主義的政治体制を成立させた。
ハンガリー
ハンガリーでは、1919年3月、共産党のベラ=クン Béla Kun (1885〜1937)を指導者として、ロシア革命をモデルにした社会主義政権が成立したが、社会主義的政策を強行して農村部の反発を招き、半年も保たずに崩壊した。その後、軍部や右派勢力が実権を握り、旧体制を復活させ、20年にはホルティ Horthy (1868〜1959)を摂政にして内閣の任免権などを含む広範な権限を与え、そのもとで東欧ではもっとも右よりといわれたベトレン Bethlen (1874〜1947)政府の権威主義的支配が続き、大土地所有制はほとんど手つかずのままおかれ、選挙制度も改悪された。ハンガリーは講和条約によって「歴史的領土」の3分の2、人口の5分の3を失ったため、失った旧領土回復をめざす修正主義陣営の有力な一員となった。
バルカン半島
バルカン半島では、戦後セルビアなど南スラヴ系諸民族がセルブ=クロアート=スロヴェーン王国(1928年には、国名をユーゴスラヴィアと改称した)を樹立し、ルーマニアは領土を拡大してバルカンの大国となった。ここでも農民問題と民族問題への対応が共通した課題であり、それをめぐる政策が国内対立の原因となった。ブルガリアのスタンボリースキ Stamboliyski (1879〜1923)政府が農民への土地再配分政策を実行したものの、クーデタで打倒されたことはその一例である。議会制の混乱は軍部や国王独裁へといたることが多く、また政敵へのテロも多くみられた。
1920〜36年のヨーロッパのファシズム政府・軍事(国王)独裁
1920 | ハンガリー | ホルティの権威主義的摂政体制 |
1922 | イタリア | ムッソリーニのファシスト政権成立 |
1923 | スペイン | プリモ=デ=リベーラ将軍、クーデタで独裁政権 |
1923 | ブルガリア | 国王・軍部のクーデタ |
1925 | リトアニア | 軍のクーデタ。翌年新たなクーデタで軍事独裁 |
1926 | ポーランド | 軍部のクーデタ |
1928 | アルバニア | 大統領のクーデタ。みずから国王を宣言 |
1929 | ユーゴスラヴィア | 国王のクーデタ。国王独裁体制 |
1933 | ドイツ | ヒトラー政権成立 |
1933 | オーストリア | ドルフース首相、クーデタで権威主義政府樹立 |
1934 | ラトヴィア | クーデタで独裁政権 |
1934 | エストニア | クーデタで独裁宣言 |
1936 | ギリシア | 共和制から王制へ、翌年メタクサス独裁政権成立 |