植民地の勝利と新国家の誕生
独立で認められたアレゲーニー山脈からミシシッピまでの広大な土地は、各州が権利を放棄し、国有地として連邦が管理し移住者に開放した。1787年「北西部条令」で、成人男性6万人の自由民が居住すると、州憲法を制定し、「あらゆる点で、最初の13州と同等の資格」で連邦に加入する権利を与えられ、合衆国独自の国家拡大の方式となった。
植民地の勝利と新国家の誕生
各植民地は独立戦争の間にそれぞれ邦憲法(州 state )をつくり、独自の邦(州)政府を組織していた。
state は州よりは国(邦)と呼ぶのがふさわしい存在であった。第2回大陸会議で1777年に採択され、1781年に各邦(州)の批准をえた連合規約では、各邦が1票の投票権をもつ連合会議をつくり、それが合衆国政府の役割を担っていた。各邦の代表からなる連合会議は中央政府としての権限が弱く、邦をこえて直接、徴税や徴兵をおこなう権限もなく、財政は各邦の醵金で支えられていた。独立後、対外債務支払いなど外国との協定の履行、政府の国内債務の支払いなど各邦の間にまたがる問題などに直面して、強力な権限をもった中央政府を樹立する要求が高まった。
1787年、フィラデルフィアで憲法制定会議が開かれた。会議では大邦と小邦の利害の対立などをめぐって論議が戦わされた。会議を指導したのは、のちの財務長官アレクサンダー・ハミルトンや第4代大統領となったジェームズ=マディソン(1751〜1836)らであったが、ヴァージニアなど大邦は中央政府の権限を大幅に拡大することを求め、ニュージャージーなど小邦は邦(州)の権限が中央政府によって制約されることに警戒を示した。
「北西部条令」にみる合衆国の拡大
独立で合衆国はアレゲーニー山脈からミシシッピまでの広大な土地の領有を認められた。その土地は、各州が権利を放棄し、国有地として連邦が管理し、移住者に開放されることになった。1787年に連合会議は「北西部条令」で、オハイオ川以北の土地は、測量によって、6マイル平方の「タウンシップ」に区分し、さらにそれを2分の1、4分の1のセクションに区分し、1エーカー2ドルで売却することを決めた。しかし、移住者が増えると、その地域を永久に連邦政府の直接の支配下におくわけにもいかなかった。「北西部条令」は臨時准州政府の規定を含んでいた。ある特定の地域に成人男性の自由民5000人居住するようになると、連邦知事の監督下に准州議会をおくことができた。さらに准州に6万人の自由民が居住するようになると、その住民はみずから州憲法を制定し、「あらゆる点で、最初の13州と同等の資格」で連邦に加入する権利を与えられた。
このように、新しい土地への移住者が自治を約束され、地域の政府を樹立し、独自の憲法をつくり、やがては建国当時の諸州と同等の仲間として連邦に加わるという方式は合衆国独自の国家拡大の方式となったのである。