英・仏の植民地戦争
イギリスは、1607年に最初の北米植民地ジェームズタウンの建設に成功し、本国で迫害されていたピューリタンや毛織物工業の失業者などが年季奉公人として移民した。砂糖生産によってバルバドス島などのカリブ海植民地も急速に発達したが、ここでは黒人奴隷が主な労働力となった。
英・仏の植民地戦争
イギリスは、1607年に最初の北米植民地ジェームズタウンの建設に成功し、本国で迫害されていたピューリタンや毛織物工業の失業者などが移民した。彼らの多くは、先に述べた年季奉公人としての移民であった。ついで、砂糖生産によってバルバドス島などのカリブ海植民地も急速に発達したが、ここでは黒人奴隷が主な労働力となった。1655年にオリバー・クロムウェルがスペインから奪ったジャマイカは、まもなく世界最大の砂糖生産地となった。
フランスも17世紀初めから北米に進出し、ケベックを中心にカナダを支配し、ミシシッピ川流域にもルイジアナ植民地を設立した。
18世紀は、こうしてカリブ海や北アメリカでも、英・仏両国の対抗関係が続いた。スペイン継承戦争後のユトレヒト条約(1713)( ルイ14世の政治)では、イギリスはフランスからニューファンドランドなどを、スペインからは同国の植民地への奴隷供給権(アシエント特権)などを獲得した。さらに、1739年からイギリスとスペインの間におこったジェンキンズの耳の戦争は、翌1740年からオーストリア継承戦争(1740〜1748)となり、イギリスはオーストリアと組んでフランス・スペインと対抗した。
ジェンキンズの耳の戦争
スペイン継承戦争後のユトレヒト条約で、イギリスは毎年1回だけ特許船をスペイン領アメリカに送りこみ、通商をする権利が認められていた。しかし、この権利が濫用されていると主張するスペインとの間でいざこざが絶えなかった。1738年、イギリス船の船長ジェンキンズが、会議において、かつて西インド諸島から帰港する際にスペイン官憲の臨検をうけ、片耳を切り落とされたと証言したことが一因となって、翌1739年から戦争が始まった。イギリスでは、この戦争を「ジェンキンズの耳の戦争」と呼んだ。宣伝合戦の激しかった18世紀ヨーロッパの国際関係を象徴する事件である。
オーストリア継承戦争でプロイセンにシュレジエンを奪われたマリア・テレジアが、その奪回をめざして1756年に開始した七年戦争(1756〜1763)( プロイセンとオーストリアの絶対王政, プラッシーの戦いとイギリスのアジア経営)も、植民地では英・仏の対立が中心となった。
この戦争後のパリ条約(1763)では、イギリスはフランスからカナダとミシシッピ以東のルイジアナ、フロリダなどをえた。18世紀のフランスは、ガドループなどカリブ海の砂糖植民地をも発達させ、貿易もイギリスに劣らないほど発展していたが、この条約によって北アメリカ大陸での植民地をすべて失った。逆にイギリスは、広大な帝国を完成し、カリブ海の西インド諸島とアメリカ大陸の13植民地を中心としたこの帝国は、インドを核とする19世紀のそれに対して「第一帝国」または「旧帝国」などと呼ぶ。またこの帝国は、重商主義政策を推進するためにつくられたという意味で「重商主義帝国」という場合もある。
イギリスのアメリカ植民地のなかでは、砂糖キビの栽培されたカリブ海とタバコを産出した大陸南部植民地、すなわちヴァージニアとメリーランドがイギリスにとって重要と考えられた(綿花が重要な意味をもつようになるのは、もっとのちのことである)。砂糖やタバコをはじめとする換金作物は、プランテーションの形態をとって、いずれも黒人奴隷の労働力に依存しながら大規模に生産された。
これに対して、北部のニューイングランドはこうした換金作物に恵まれなかったために、イギリスからの干渉が少なく、かえってヨーマン的な自立的農民の自由な労働による生産がおこなわれた。この結果、まもなくここでは造船業や商業がさかんになり、北米中部植民地の穀物とカリブ海の砂糖やラム酒の交易などをおこなうようになった。材料に恵まれた造船業も18世紀中ごろには大発展をとげ、イギリス本国でもニューイングランド製の船舶が多くみられるようになった。
しかし、植民地はまたイギリス工業製品の市場ともみなされていた。事実、大量の生活に密着した工業製品(各種の織物、鍋や釘、農機具、陶器、衣類、聖書などにいたるまでの製品)、および茶などのアジアの商品がイギリス本国から大量にもたらされた。イギリスの議会や政府は、本国企業のためにこの市場を守ろうとして、鉄法、帽子法、糖蜜法など植民地の工業発展を抑圧する政策を展開した。これらの政策は、航海法の体系とともにイギリス重商主義の根幹をなしたとみられているが、ニューイングランドの工業発展を阻止する効果はあまりなかった。