アフリカの植民地化
1884〜85年ベルリン=コンゴ会議(イギリス・ドイツ・オーストリア・ベルギー・デンマーク・スペイン・アメリが合衆国・フランス・イタリア・オランダ・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・オスマン帝国が参加)。第一次世界大戦直前にはアフリカの独立国はリベリア共和国とエチオピア帝国のみとなる。
アフリカの植民地化
イギリスは大西洋奴隷貿易を通して莫大な利益を上げ、それが産業革命のための資本の蓄積になったといわれる。しかし、18世紀後半から非国教各派による奴隷制と奴隷貿易の廃止を求める運動が展開された。ナポレオン戦争中に奴隷貿易が停止され、1833年、イギリス帝国全体で奴隷制度を廃止することが決定されたのは、この運動の成果である ❶ 。
奴隷貿易廃止への動きは、ヨーロッパにおける産業と社会の構造変化を反映するものであった。19世紀前半に西アフリカからのアブラヤシの輸出が急速に拡大したように、アフリカはもっぱら工業化を進めるヨーロッパにとってのヤシ油・ピーナッツ油・綿花などの原料供給地と工業製品市場の役割を果たすことになった。
かつてヨーロッパ人のアフリカに関する知識は地中海沿岸のアフリカ北部と海岸の貿易拠点に限られていた。18世紀後半あたりからアフリカ内陸部への探索やキリスト教の布教活動は開始され、その動きはアフリカの経済的位置づけが変わるとともにさらに活発化した。イギリス人宣教師リヴィングストンはムスリム商人による奴隷貿易の根絶を目的にアフリカ東部や南部を何度も探検したが、結果的には植民地化の道をつけることになった。アメリカの探検家スタンリーは行方不明になったリヴィングストンを発見して有名になり、アフリカ中央部を探検して現地の首長と条約を結ぶなどベルギーのコンゴ国際協会のために働いた。
コンゴの経済的重要性に着目したベルギーのレオポルド2世(ベルギー王)(位1865〜1909)がその領有を宣言すると、イギリスとポルトガルはこれを妨害しようとした。ここで、アフリカ進出の機会をうかがっていたビスマルクが仲介に乗りだし、1884〜85年にベルリン会議を開いた ❷ 。
会議は、コンゴ盆地の自由貿易と中立化、コンゴ川およびニジェール川での「航行の自由」、奴隷貿易の禁止などを定め、さらに新たにアフリカの領土を合併する場合、その地域での他国の権益と通商・航行の自由を確実に保証できる実体的な支配権を確立しなければならないという原則を取り決めた(実効支配の原則)。そのためには、植民地の境界を画定し、現地に行政・治安機構をつくる必要があった。こうして、ベルリン会議でアフリカ分割の大原則が定められてから、列強によるアフリカの植民地化は急速に進んだ。そして、第一次世界大戦直前には、アフリカの独立国はリベリア共和国 ❸ とエチオピア帝国だけになってしまった。
アフリカの植民地化を先導したのは、イギリス・フランス・ポルトガルであった。イギリスは1880年代の初めにエジプトを事実上の保護下におき、さらにマフディー派の抵抗を排除して1899年にはスーダンを征服した。アフリカ南部のケープ地域はオランダの植民地であったが、ウィーン会議でイギリス領となり、ケープ植民地がつくられた。オランダ人の子孫を主体とするブール人 Boers ❹ はイギリス支配を逃れて北方に移住し(グレート=トレック)、現地のアフリカ人の土地を奪いトランスヴァール共和国 Transvaal (1855〜1902)とオレンジ自由国 Orange (1854〜1902)をたてた。
農業地域であった両国で19世紀後半に豊富なダイヤモンドと金が発見されると、イギリスは両国の併合を画策するようになった。ベルリン会議を通してドイツが南西アフリカを植民地にすると、イギリスは南アフリカから北方に隣接する中央アフリカ地域へも進出して現在のボツワナを保護領化し、さらにセシル=ローズ Cecil Rhodes (1853〜1902)はジンバブウェ地方なども支配下においた。ケープ植民地首相となったローズがトランスヴァールの併合に失敗して失脚したあと、イギリス本国の植民地相ジョゼフ=チェンバレンは、1899年、南アフリカ戦争(ブール戦争, 1899〜1902)をおこした。イギリスはゲリラ戦に苦しみながらも勝利してブール人の両国家を併合し、のちに南アフリカ連邦となる原型をつくりあげた。イギリスのケープタウンとカイロを結ぶアフリカ縦断政策は、インド支配(カルカッタ)とも結びつき3C政策と呼ばれる。
世界政策のもとでドイツの進めるバグダード鉄道を軸とした3B政策は、イギリスの3C政策やロシアの南下政策と対立し、列強の外交関係を変化させた。 参考:山川 詳説世界史図録
ドイツの膨張政策に対抗して権益を守ろうとするイギリスの動きは、フランスの植民地拡大政策も刺激した。すでにアルジェリア・チュニジアを領有していたフランスはサハラ砂漠から西アフリカをへて赤道アフリカにいたり、さらにジブチ・マダガスカルを連結しようとした。フランスのアフリカ横断政策はまず、ゴールドコースト・ナイジェリアから進出したイギリスとニジェール川上流で衝突した。ついで、コンゴからナイル川の上流をめざしたフランス軍は、1898年、マフディー国家を崩壊させたイギリス隊とファショダ Fashoda で衝突した(ファショダ事件)。この事件で英仏間の緊張は最高潮に達したが、その後1904年、海外進出を強化するドイツへの警戒心から両国の間で英仏協商が結ばれた。これにより、フランスはイギリスのエジプトにおける支配的地位を、イギリスはフランスのモロッコにおける支配的地位を認めあうなど、長年にわたる英仏間の対立に終止符が打たれた。
ドイツはベルリン会議を機に1880年代半ばに、南西アフリカ(現ナミビア)・カメルーン・トーゴランド・東アフリカ(タンガニーカ)の領有権を獲得したが、いずれも経済上の利益をもたらすものではなかった。ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) の時代には、植民地を領有することは列強としての存在感を示すための政策とうけとめられるようになった。1904年以後、英・仏の接近に不安を感じたドイツは、フランスのモロッコ支配に異議を唱えて2度にわたりモロッコ事件を引きおこしたが、モロッコはフランスの保護国となった。
イタリアは紅海に面するエリトリア・ソマリランドを獲得した。ついで、隣接するエチオピアを征服しようとしたが、アドワの戦いで敗れ、後退した。その後、イタリアは列強が 第2次モロッコ事件 に忙殺されている間に、イタリア=トルコ戦争(1911〜12)を戦い、オスマン帝国からトリポリ・キレナイカ(両者を合わせて現リビア)を奪った。
ベルリン会議で成立したコンゴ自由国はレオポルド2世(ベルギー王)の私有領とみなされ、ゴム輸出で利益をあげた。しかし、現地人に対する過酷な扱いが内外の批判を浴び、1908年、同国はベルギーに併合されて、ベルギー領コンゴとなった。
セシル=ローズ
イギリス人セシル=ローズは折からのダイヤモンド=ラッシュにのって「デ=ビアス鉱業株式会社」を経営し、1890年にはトランスヴァールのダイヤモンド鉱業をほぼ独占した。さらに、90年代半ばには金山も併合した。財力にものをいわせて政治家となり、1890年にはケープ植民地首相となった。ローズ (Rhodes) は併合した地域を自分の名前にちなんでローデシア (Rhodesia) と命名した。