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帝国主義時代のヨーロッパ諸国ーフランス ©世界の歴史まっぷ

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第三共和政はフランス革命の正当な継承者であることを任じ、一連の共和主義的改革を進めた。バスティーユ襲撃の7月14日を国民の祝日とし、ラ=マルセイエーズを国歌に定め、パリ=コミューンの関係者には大赦が与えられた。また、初等教育には義務・無償・世俗化の原則が導入され、教育への教会の影響力が排除された。

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1878年の世界地図
1878年の世界地図 ©世界の歴史まっぷ

帝国主義時代のヨーロッパ諸国 フランス

フランス国内フランス国外
1871
パリ=コミューン1870プロイセン=フランス戦争(〜71)
1875第三共和国憲法1878ベルリン会議
1881チュニジア占領
1882西アフリカでサモリ帝国の抵抗始まる(〜98)
1883ベトナム保護国化(ユエ条約)
1884ベルリン=コンゴ会議(〜85)
1884清仏戦争(〜85)
1887ブーランジェ事件(〜89)1887フランス領インドシナ連邦成立
1889第2インターナショナル結成(パリ 〜1914)
パリ万博博覧会
1894ドレフュス事件(〜99)1894露仏同盟完成
1895フランス労働総同盟結成 → サンディカリズム1895フランス領西アフリカ成立
1896マダガスカル、領有
1898ファショダ事件
1904英仏協商締結
1905フランス社会党結成(ジョレス)
政教分離法発布
1905第1次モロッコ事件
1906アルヘシラス会議
1911第2次モロッコ事件
1912モロッコ保護国化

フランスでは第三共和政発足後も国民議会の大勢を占める王党派の攻撃にさらされてきたが、1875年に第三共和国憲法が成立してからは共和派が議会の多数派を形成するようになった。第三共和政はフランス革命の正当な継承者であることを任じ、一連の共和主義的改革を進めた。バスティーユ襲撃の7月14日を国民の祝日とし、ラ=マルセイエーズを国歌に定め、パリ=コミューンの関係者には大赦が与えられた。また、初等教育には義務・無償・世俗化の原則が導入され、教育への教会の影響力が排除された。フランス革命百周年の年にあたる1889年7月14日には、革命中の祭典の舞台となったシャン=ド=マルス Champ-de-Mars でパリ万博の開会式が執りおこなわれるなど、さまざまな記念行事を通して共和国の建国起源は国民的記憶として定着させられた。こうして、1880年代には共和派諸派が連合して政権を担当する議会共和政がきずかれた(オポルテュニスム opportunisme )。

ところが、1880年代末以降、この共和国は大衆を動員する左右の急進勢力の攻撃にさらされることになった。プロイセン=フランス戦争の屈辱的講和以来国民の間に広く存在していた対独復讐熱を背景に、折から不況に対する不満が重なって、元陸軍大臣ブーランジェ将軍 Boulanger (1837〜91)を中心に左右の急進勢力による反議会主義・反体制の大衆運動が盛り上がり、クーデタ寸前までいたった(ブーランジェ事件 。ついで、世紀末から20世紀初頭にかけて、ユダヤ人将校ドレフュス Drefus (1859〜1935)がドイツのスパイとして流刑に処された冤罪事件をきっかけとする左右両派の論争は共和国の存亡をかけた対立へと発展した。このドレフュス事件は国民の間の根強い反ユダヤ主義と対独報復熱という排外ナショナリズムが結びついたものであった。しかし、これらの危機を乗り越えてからは、小党分立のなかでも中道派の急進社会党 を中心に議会政治が確立した。パリ=コミューンで打撃をこうむった社会主義勢力と労働運動も90年代に復活した。1905年、マルクス主義から改良主義まで含む社会主義諸派はフランス社会党に結集し、議会による社会主義の実現をめざすことになり、議会政治を支える一翼を担った。他方、労働組合は直接行動とゼネストに社会革命をめざすサンディカリスム Syndicalism の路線をとり、共和国内の反体制派を形成した。しかし、フランスにおいては社会党も労働組合もドイツやイギリスに比べて組織的には弱体であった。また、カトリック教会は一貫して保守勢力の一部を形成してきたが、1905年の政教分離法は宗教に対する国家の援助をいっさい排除した。この法により宗教はあくまでも私的事柄となり、聖職者の政治活動は禁止され、共和国は政治的安定を確実にした。

ブーランジェ将軍は、ビスマルク外交に煮え湯を飲まされつづけたフランスにおいて、ドイツに対する強硬な姿勢で大衆的人気を獲得した。将軍の陸相解任をきっかけに右翼王党派からボナパルト派、さらに左翼急進派まで第三共和政に不満をもつ勢力が結集し、憲法改正を求める大衆運動を展開した。将軍の自殺により運動は終息した。

急進社会党は1901年に結成された。「社会党」の名が含まれているが、フランス革命のジャコバン派の伝統を引きつぎ、地方農民と都市の小市民(手工業者)を基盤とする。人権擁護と政教分離などを綱領に掲げる。

ドレフュス事件事件

1894年秋、ユダヤ人の将校ドレフュスはドイツのスパイ容疑で逮捕され、軍事法廷により悪魔島への終身流刑の判決をうけた。ドレフュスがもとドイツ領のアルザス出身のユダヤ人であることが法廷の予断を生んだ。その後、真犯人はドレフュスの同僚の将校であり、軍が証拠を捏造したことが明らかになったにもかかわらず再審請求の道は開けなかった。1898年、作家のゾラが大統領宛に「私は告発する」の公開質問状を発表し、軍部の不正を告発すると、冤罪事件を主張する知識人・学生・共和派の政治家が結集した。これに対し、極右の国家主義者・反ユダヤ主義者・カトリック派などは国家の秩序と安定を優先して軍部の名誉を擁護した。こうして、ドレフュス事件は、真犯人探しというミステリー部分の解明は後景に退き、共和国の存立を問う事件となった。

1899年には軍法会議は再び有罪判決を下し軍部の権威を優先させた。しかし、大統領が特赦を与えて、ドレフュスを解放させた。だが、特赦はあくまでも政治的決着をはかったものであり、ドレフュスが最終的に無罪判決を勝ち取ったのは1906年のことであった。ドレフュス派対反ドレフュス派の対立は平和主義か軍国主義か、国際主義かナショナリズムかの争いとなり、これに反ユダヤ主義や共和国と教会の対立も加わって共和国の政治は激しく動揺したが、ドレフュスが再審を勝ち取ったことで軍の民主化や政教分離が進んだ。

日本で昭和前期に軍部の力が強まり言論統制が厳しくなる情勢のもとで、大佛次郎おさらぎじろうがこの事件をとりあげたように、今ではドレフュス事件は国家による冤罪と人権抑圧に抗したジャーナリズムの物語としてよく知られている。

第三共和政のフランスはビスマルクの巧妙な対仏包囲網のためヨーロッパでの活動を狭められた分、1880年代から植民地拡大政策をとり、インドシナ・アフリカに広大な植民地を獲得した。フランスは零細な農業経営が多く、工業の発展も停滞的であったため、中産階級の豊かな国内資金は大銀行に流入し、多くの年金生活者を生みだした。他方、大銀行はロシア・トルコ・バルカン諸国にさかんに債権投資をおこなった。ドイツ帝国でヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) が即位し、世界政策を展開して海外進出を積極化させる1890年には、フランスをめぐる国際情勢は大きく変わった。まず、露仏同盟(1894年)を結んで国際的孤立を脱し、イギリスとは北アフリカ・北米・タイなどでの利害を調整し、1904年には、日露戦争後の国際情勢に対処するため英仏協商を結んだ。

帝国主義列強の展開流れ図

58.帝国主義列強の展開
帝国主義列強の展開流れ図
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