二月革命とその意義
フランスでは産業資本家や労働者階級が成長し、少数の大ブルジョワの利益を優先する七月王政に対し、選挙権獲得運動を激化させたが、政府はそれを弾圧したため、パリで二月革命がおこり臨時政府が成立した。二月革命は各国に影響を与え、ウィーンでは三月革命がおこりメッテルニヒは国外へ亡命し、これによりウィーン体制は崩壊した。
二月革命とその意義
フランスでは七月革命以降産業革命が進行して、中小の産業資本家も成長し、労働者による労働運動や社会主義運動がおこった。
当時のフランスでは有力者が全人口のわずか1%にもおよばない制限選挙であったため、大ブルジョワジーの支配に対する不満が国民の間に高まった。
19世紀パリの民衆は、七月革命から二月革命、パリ=コミューンにいたるまで、自分の居住区にバリケードをきずいて地区の連帯を固め、外敵と対決した。この1848年のフランス二月革命で、ルイ=フィリップ(フランス王)はイギリスに亡命した。
この政府には、ラマルチーヌ Lamartine (1790〜1869)に代表される産業資本家などの有産市民からなる穏健な共和主義者と、ルイ=ブランに代表される労働者・社会主義者勢力が参加した。男性普通選挙制の採用、言論・出版などの自由を決定し、さらに労働者の地位改善のためにリュクサンブール委員会を設置して国立作業場を設立した。しかし両者の主張はたがいに激しく対立し、1848年4月における総選挙において、社会主義化によって土地を失うことを恐れる農民が反労働者の立場についたため、労働者側は大敗した。ブランキらの無政府主義者は五月暴動をおこして政府の転覆をはかったが失敗に終わり、6月に単なる失業対策に終わってしまっていた国立作業場の閉鎖が決定されると労働者は暴動をおこしたが、これもカヴェニャック Caveignac (1802〜57)率いる政府軍によって鎮圧された(六月暴動または六月事件)。
このあと、穏健な共和主義者が指導する方向で国内の体制は収束することになった。12月大統領選挙がおこなわれ、詩人であったらマルチーヌ、六月暴動鎮圧の立て役者カヴェニャック、ナポレオンの甥であるルイ=ナポレオン Louis Napoléon (1808〜73)が争ったが、ナポレオン伝説をたくみに利用したルイ=ナポレオン(ナポレオン3世 任1848〜52)が大統領に当選した。
二月革命では労働者が政治世界に登場し社会変革を志向するようになり、産業資本家との政治・経済面での対立が深刻化し、さらにヨーロッパ各国に影響を与えて各国のナショナリズムや自由主義運動を高揚させたことから、西欧と東欧の相違が顕在化し、19世紀初頭に成立したウィーン体制は完全に崩壊した。