元の東アジア支配
フビライ・ハンは、即位前に大理国(雲南)や吐蕃(チベット)を攻撃し(雲南・大理遠征)、さらに淮水以北の華北の統治を任され、漢人の知識人や軍人を重用して中国風の統治政策を採用した。こうした華北支配を背景に即位したフビライは、中国風の元号をたて、1264年、カラコルムから大都(北京)に都を定め、1271年には国号を中国風に元と称した。
元の東アジア支配
その間も南宋への侵攻は続けられ、江南の要衝である襄陽・鄂州を落とした元軍は、1276年、南宋の首都臨安を占領した。一部のものは皇帝の一族を擁して南方に逃れ、抗戦を試みたが、1279年、江東沖の崖山の戦いで敗れ、南宋は滅亡した。こうして元朝による中国全土の支配は完成したが、異民族によって中国全土が支配されたのはこれが初めてであった。
元朝の領土は、フビライ(ハン)のときに最大となり、モンゴル高原・中国本土・中国東北地方を直轄地とし、チベット・高麗を属国とした。さらに日本征服や南海への遠征を企て、日本をはじめベトナム・カンボジア・ミャンマー(ビルマ)・ジャワに侵攻した(元寇・モンゴルのビルマ侵攻)。
1274年と1281年の前後2回の日本遠征(文永の役・弘安の役)は、鎌倉武士の抵抗と暴風雨のため失敗した。
ベトナムの陳朝への3回にわたる遠征は、いったんは首都ハノイを占領したものの民衆の激しい抵抗によって撃退された。
また1292年のジャワ遠征でも、元軍は大損害をこうむり撃退された。
元は中国の君主独裁体制の機構を継承し、中央には中書省(行政)・御史台(監察)・枢密院(軍政)を根幹とする中央集権的支配機構を組織した。地方の行政機構では、従来の州県制を継承し、さらにその上級の行政区画として行中書省と路が設けられ、路以下には監督官としてモンゴル人のダルガチが任命された。
また、中央政府の要職や地方行政機関の長を少数のモンゴル人が征服者として独占した。しかし、圧倒的多数を占める中国人を支配するためには第三者の協力を必要とした。これが色目人と総称されたウィグル、タングート、イランをはじめとする中央アジア、西アジア出身の諸民族である。彼らは元朝の財政面で重要な役割を果たした。
一方、人口の大多数を占める中国人については、旧金朝支配下の華北の住民は漢人と呼ばれ、また旧南宋支配下の江南の住民は南人と呼ばれた。
元朝の高級官僚の任用は、世襲や恩蔭によっておこなわれたために科挙は一時廃止され、中国人の士大夫階級は、高級官僚への道を閉ざされてしまい、末端の実務を担当する胥吏にならざるをえなかった。
やがて士大夫階級を懐柔するために、14世紀前半、元朝第4代仁宗(アユルバルワダ)が科挙を復活したが、武人や実務に従事する官僚が重視されたため、漢人、南人には不利なものであった。
元は中国全土を征服したが、直接支配できたのは旧金朝支配下の華北だけであり、江南では宋代以来の地主層の勢力が温存され、地主佃戸制が従来通り継続された。
税制面でも、華北ではあらたに税糧と科差が施行されたが、江南では南宋以来の両税法が継承された。また、モンゴル人などの支配層は、強力な武力を背景に重税を課したので、中国人農民の元朝への不満は高まった。
フビライの死後、元朝内部では皇位継承をめぐる相続争いが続いた。元朝になってからも皇位継承の制度が確立されず、クリルタイで後継者を決定する習慣が残っていたため、一族・重臣の間で激しい権力争いが生じた。
経済上では、宮廷での濫費や、歴代の皇帝によるチベット仏教の信仰や寺院の建立などによって、莫大な国費を費やしたため財政は窮乏した。元朝は、財政難を切り抜けるための交鈔を濫発し、専売制度を強化したが、かえって物価騰貴を招き、民衆の生活を苦しめた。
こうした政治の腐敗やインフレに天災や飢饉が加わって、社会不安は増大し、各地で農民の暴動が相次いだ。なかでも弥勒信仰により強固に団結した白蓮教徒は、教主韓山童に指導され、1351年、紅巾の乱(白蓮教徒の乱)をおこした。
韓山童が殺害されたのちも、その子の韓林児を擁して黄巾軍が蜂起を続けると、黄河流域から長江流域にかけての各地で元朝打倒を叫ぶ群雄が割拠した。江南デルタの穀倉地帯を奪われ、大都への食料供給も不可能となり、1368年、江南に明(中国)を建国した朱元璋が北伐軍を派遣すると、90年間にわたって中国を支配した元朝はモンゴル高原に退いていった。