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五胡十六国時代の地図 ©世界の歴史まっぷ
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北方民族の動向

4〜5世紀のユーラシア大陸では遊牧民の大規模な活動がおこり、ゲルマン人の大移動もその一部とされる。影響を受けた遊牧民などによって樹立された地方政権が、4世紀初めから130年余にわたって華北で興亡をくりかえした。したがって、このような動向を五胡の「侵入」と呼ぶより、むしろ華北における五胡の「自立」もしくは「蜂起」というべきである。

東アジア世界の形成と発展

後漢末の黄巾の乱をきっかけに漢帝国が崩壊すると、中国は約3世紀半以上にわたる晋南北朝ぎしんなんぼくちょうの分裂と動乱の時代を迎えた。この時代には三国の分立や五胡の自立、南北朝の対立などにより中国社会は大きな変化をみた。そうした中で、隋・唐の世界帝国につながる新しい体制の基礎がきずかれた。一方、江南の開発も進み産業が発達し、大土地所有の進行で台頭した豪族勢力が貴族化していった。

6世紀末、南北朝を統一した隋王朝大運河を建設し、名実ともに南北中国の統一を実現した。これをついだは大帝国をきずき、三省六部さんしょうりくぶの設置や律令の整備、均田制の施行などで中央集権につとめた。
当時、漢字や儒教、仏教、律令などの唐王朝の文化や制度は周辺諸国に影響を与え、東アジア文化圏が形成された。首都の長安には西方の文物が伝わり、国際色豊かな文化が花開き、朝鮮半島や日本などの諸国も使節などを派遣し、その文化や制度を取り入れることにつとめた。

やがて安史の乱を契機に均田制は崩壊し、土地私有を公認する両税法が施行されると、大土地所有を実現した新興地主層が台頭し、貴族は没落にむかった。唐末・五代十国時代には節度使(藩鎮はんちん)など武人が勢力をふるったが、その間も新興地主層は実力を蓄え、新たな支配層へと成長した。

宋(北宋は五代十国の混乱を収拾し、科挙の整備による官僚制度の教化と文治主義によって、強力な君主独裁体制を確立した。しかし、契丹きったん女真じょしんなどの周辺諸民族の侵入に悩まされ、12世紀前半には、女真のに華北を征服された。江南に逃れた南宋も、13世紀後半にはモンゴル人の元に滅ぼされた。

こうして成立した新しい東アジア諸国は、これまでのような中華文明への従属姿勢を捨て、みずからの民族的・文化的独自性を明確に自覚するにいたった。そしてそれは、契丹族の遼(王朝)、女真族の金(王朝)、そしてモンゴルと続く、北方民族がみずからの独自性を保持しつつ中国の地を支配する「征服王朝」の時代を現出させた。
一方、唐末五代の混乱を収拾して成立した宋は、北方民族の重圧に苦しみながらも、君主独裁体制と、科挙の整備による文治主義によって、安定した政治体制を確立し、そのもとで経済と文化は繁栄を謳歌した。国際的な唐代の文化に対し、漢族の独自性を強く打ち出した宋はの文化は、その後の中国文化のひとつの基層ともなったのである。

1「飛鳥の朝廷」まとめ2/2 弥生・古墳時代 中国との交渉 東アジア世界の形成と発展 邪馬台国連合
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北方民族の活動と中国の分裂

北方民族の動向

4〜5世紀のユーラシア大陸では遊牧民の大規模な活動がおこり、周辺の農耕地帯はその影響を強くうけた。東アジアでは北方、西方の遊牧民による地方政権の樹立が華北でみられ、また、フン人の西進にともなうゲルマン人の大移動に関連する動きも、こうした動向の一部とされる。1世紀ころモンゴル高原にいた匈奴は南北に分裂し、南匈奴は後漢に降伏して長城の南辺に移住するようになり、魏・晋代には今の山西省全域にまで広がった。また、後漢後期以来、西方のていきょうも移住させられたり、あるいは中央政府の力の衰えに乗じて進出したりして、陝西せんせい甘粛かんしゅく地方に多く移住するようになっていた。鮮卑せんぴは匈奴の力が衰えたあとに進出してきたため中国内地への移住は遅れたが、中国での動乱をさけた漢人の亡命者などを取り込んでいた。

これらの遊牧民などによって樹立された地方政権が、4世紀初めから130年余にわたって華北で興亡をくりかえした。したがって、このような動向を五胡の「侵入」と呼ぶより、むしろ華北における五胡の「自立」もしくは「蜂起」というべきである。
一方、こうした華北の混乱を避けて漢人の南方への移住も増大した。こののち華北では遊牧社会の要素を取り入れた新しい文化が生まれるとともに、江南では漢人による開発が進められていき、のちの隋・唐帝国の基礎がつくられることになった。

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淝水の戦い 東晋 五胡十六国時代(4世紀)地図
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