同盟外交の展開と列強の二極分化 三国同盟 三国協商 第一次世界大戦前の国際関係図 露仏同盟
第一次世界大戦前の国際関係図 ©世界の歴史まっぷ

同盟外交の展開と列強の二極分化

英は光栄ある孤立を保っていたが、アフリカやアジアで仏・露と対立。さらに新たなライヴァル、独・日・米が登場。ドイツは世界政策に乗り出し、ドイツの3B政策はイギリスの3C政策と衝突した。

同盟外交の展開と列強の二極分化

ビスマルク外交による同盟網
ビスマルク外交による同盟網 ©世界の歴史まっぷ
第一次世界大戦前の国際関係図
第一次世界大戦前の国際関係図 ©世界の歴史まっぷ

ビスマルクが構築した同盟関係は、アルザス・ロレーヌを奪還しようと復讐心に燃えるフランスと、東欧へ版図を広げようという野望を抱くロシアとの間の離間をはかるものであった。当のフランスは第三共和政のもとで議会主義政治が定着しつつあり、ツァーリの専制帝国ロシアに対する違和感も根強かった。他方、仏露両国には外交的孤立への不安から解放されることを望んでもいた。ビスマルクが失脚すると、1890年ドイツは対外行動の自由を広げるため、ロシアとの再保障条約の更新をみおくった。フランスとロシアは接近し、1894年露仏同盟が成立した。

ドイツもオーストリア=ハンガリー・イタリアとの間の三国同盟を更新し、ヨーロッパの国際関係は、三国同盟と露仏同盟という二大ブロックが対峙する形になった。イギリスはヨーロッパの同盟関係から超然として「光栄ある孤立」を保っていた。しかし、イギリスはアフリカやアジアでフランスとロシアに対立し、さらにドイツ・日本・アメリカという新たなライヴァルが登場した。とりわけ、1898年、ドイツは「世界政策」と称して積極的な植民地獲得政策に乗り出した。外洋向け艦隊をいっきょに増強するドイツの海軍拡張計画は、北海・バルト海におけるイギリスの覇権を脅かした。また、ドイツはアナトリアからペルシア湾にいたるバグダード鉄道の敷設権をオスマン帝国から獲得して近東への経済的進出を本格化させた。ベルリン・ビザンティウム(イスタンブル)・バグダードを結ぶドイツの3B政策は、黒海から東地中海への出口を求めるロシアの南下政策やインドへの道として東地中海地域を重視するイギリスの3C政策( アフリカの植民地化 – 世界の歴史まっぷ)と衝突した。

そのころ、イギリスは南アフリカ戦争に勝利したもののその強引なやり方に内外の強い非難を浴びたため、外交的孤立の不利益を悟るようになった。同盟政治の転換は極東からおきた。イギリスは、ジョゼフ=チェンバレン植民相がドイツとの同盟を模索したことがあり、義和団事件後のロシアの南下政策の脅威に対処するため、ドイツとの同盟交渉を望んだ。しかし、この交渉はドイツ側がロシアとの友好関係も容認したため不調に終わった。そこで、1902年、イギリスは、中国東北地方に大軍を駐留させて朝鮮半島へ圧力を行使しようとするロシアの動きを警戒する日本との間に日英同盟を結んだ。イギリスにとっては、この同盟がロシアの太平洋岸進出を牽制し、ロシア・フランス・ドイツ3国による中国分割を阻止することが期待された。しかし、1904年、日露戦争が勃発すると、日英同盟・露仏同盟のためにイギリスとフランスも戦争に巻き込まれる可能性が生じた。すでにファショダ事件の処理でも明らかになっていたように、アフリカでの植民地問題に妥協が成り立っていた英仏両国は1904年英仏協商を結び、流動化する国際関係に備えた。両国の同盟の効果は 第1次モロッコ事件 (1905)で現れた。すなわち、英仏協商でフランスのモロッコ支配が保障されたことにドイツは反発し、1905年、ヴィルヘルム2世(ドイツ皇帝) はみずからタンジールに上陸してスルタンと会見し、モロッコの主権を強調した。翌年、ドイツの要求を協議する国際会議がスペインのアルヘシラスで開催された。この会議でイギリス・ロシアばかりでなくイタリア・アメリカもフランスを支持したため、ドイツは孤立した。

ドイツは、1906年と08年に艦隊法を改正し、ドレッドノート型の巨大戦艦を建造したイギリスを追走した。一方、日露戦争に敗れたロシアは弱体化が明らかになり、中央アジアでの権益問題を協議するためイギリスと交渉し、1907年英露協商 が結ばれた。こうして、露仏同盟・英仏協商・英露協商をとおして英・仏・露の間に三国協商という同盟が成立し、独・墺・伊の三国同盟と対立した。しかし、三国同盟の一員であったイタリアは「 未回収のイタリアイタリアの統一)」をめぐってオーストリアと対立し、しだいにフランスに対する敵視政策を改めていった。両国はチュニジアにおけるフランスの、リビアにおけるイタリアの優位を承認したうえで、三国同盟が更新された1902年には、たがいの中立を約束した穏やかな合意にいたった。その結果、ドイツは信頼できる唯一の同盟国オーストリアとの結束を強めていった。こうして、列強はイギリスとドイツをそれぞれの中心とする二つの陣営にわかれ、英独間の軍縮交渉が不調に終わった1910年代には、たがいに軍備拡大を競い合いつつ力の均衡を保つという「武装した平和」の状態に入った。そのようななか、1911年、モロッコでベルベル人の反乱がおき、フランスが鎮圧のために出兵すると、ドイツは居留民保護を理由にモロッコ南部のアガディール港に軍艦を派遣した。ここに独仏衝突の危機が高まったが、ドイツはフランス領コンゴの一部の割譲と引き換えに、モロッコのフランス保護領化を承認せざるをえなかった( 第2次モロッコ事件 )。ドイツのこの砲艦外交は国際社会から露骨な権力外交として批判される一方、ドイツの世論は事件に介入してドイツに譲歩を迫ったイギリスに激しく反発した。

英露協商:イランは北部をロシア、南部をイギリスの勢力範囲とし、中部は緩衝地帯となった。アフガニスタンはイギリスの勢力範囲と認め、チベットへの内政不干渉が約束された。
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