新羅 百済 6世紀の朝鮮半島地図 周辺国家の形成
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周辺国家の形成

高句麗百済新羅 それぞれ北朝や南朝の諸政権と通交し、これらの権威をかりながら7世紀まで抗争を続けた。
日本 3世紀前後より邪馬台国を中心とする連合が進み、4世紀に入ると、ヤマト政権による統一が進められ、さらに朝鮮半島の抗争にも介入し、加羅や百済をたすけて高句麗に対抗した。

周辺国家の形成

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東アジア世界の形成と発展 ©世界の歴史まっぷ

五胡の諸民族による国家形成にともない中国が分裂状態になったころ、周辺の諸地域でも国家形成が進んだ。分裂時代の中国の諸王朝は、みずから権威を高めるために周辺の新興国家とのつながりを強化しようとはかり、朝貢関係を積極的に結ぼうとした。

朝貢とは、周辺諸国(夷狄いてきの君主)が貢物をもたせた使節を中華(皇帝)に送り、皇帝が使節を接見して「回賜かいし」という返礼品を与える制度をいう。これは支配・従属の関係を理念的に表現した政治的行為、すなわち外交儀礼であると同時に物資の交換という側面をもっていた。これによって皇帝は自らの権威を高めるとともに、周辺諸国の君主はその支配の正当性を保証されることになった。( 明初の政治 | 世界の歴史まっぷ

高句麗

紀元前1世紀ころ中国東北地方の南部におこったツングース系の高句麗こうくりは、3世紀半ばに王朝によって遼東りょうとう公孫こうそん氏が滅ぼされると、これに乗じて朝鮮半島の北部一帯に勢力をのばし、313年には前漢以来続いてきた中国勢力の拠点である楽浪郡を滅ぼした。
4世紀後半の高句麗第19代王・広開土王こうかいどおう好太王 位391〜412)のときから隆盛期を迎え、その子の長寿王(位412〜490)のときには都を鴨緑江おうりょくこう中流の丸都城がんとじょう集安しゅうあん)から大同江畔の平壌へいじょうに移し、遼東地方を領有して強盛となった。高句麗は北魏に朝貢するとともに南朝とも通交した。

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3世紀初の朝鮮半島地図
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5世紀初の朝鮮半島地図
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三国時代(朝鮮)

また、朝鮮半島南部では、漢族が馬韓ばかん辰韓しんかん弁韓べんかんの三韓に分かれて小国家群をつくっていたが、ここにも統一の機運がおよび、4世紀なかばには半島西南部の馬韓の地に百済くだらが、東南部の辰韓の地に新羅しらぎが成立し、三国時代(朝鮮半島)に入った。

三国は、それぞれ北朝や南朝の諸政権と通交し、これらの権威をかりながら7世紀まで抗争を続けた。また弁韓(加羅から加耶かや)の地でも小国家の連合が進んだとみられるが、やがて百済と新羅の支配下に入った。

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邪馬台国

漢代には多くの小国家に分かれ、中国の歴史書でと呼ばれていた日本列島でも、3世紀前後より邪馬台国を中心とする連合が進み、その女王卑弥呼は239年に魏(三国)に朝貢し、「親魏倭王」の称号をえて勢力をのばした(『三国志』魏書東夷伝倭人条。通称『魏志』倭人伝)。
その後、4世紀に入ると、ヤマト政権による統一が進められ、さらに朝鮮半島の抗争にも介入し、加羅や百済をたすけて高句麗に対抗した。

中国吉林省集安市に存在する高句麗の広開土王碑こうかいどおうひは、子の長寿王が父の事蹟を顕彰けんしょうする目的でたてたものである。このなかに高句麗と百済・倭の戦争が記されているが、その解釈をめぐっては諸説がある。

5世紀の倭の五王の時代には、南朝の宋にしばしば使節を派遣して王権の承認を求め、自国の地位の強化をはかった。こうして、中国や朝鮮から漢字や儒教・仏教などが伝えられ、文化も進んだ。

『宋書』など南朝の歴史書にみえる5人の倭王。
さん」→応神か仁徳にんとく履中りちゅう天皇、「ちん」→反正はんせいか仁徳天皇、「せい」→允恭いんぎょう天皇、「こう」→安康あんこう天皇、「」→雄略ゆうりゃく天皇をいう(括弧内は推定されている天皇名)。

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